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2007年6月28日(木曜日)

第二夜 底抜け!豪快!! 船成金の館あるいは勝田銀次郎傳(その2)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 船成金には2つの類型がある。
 一つは資金の豊富な異業種から参入するケース。もうひとつは、
傭船業や貿易業に従事しながら業務を通じて海運業界の知識を蓄
えて、戦争などに伴う景気の波に乗って成り上がる者。
 前者の代表といえば、西宮の「白鹿」醸造元の辰馬家がまずは
挙げられるだろう。江戸時代からの内海海運の近代化の中で、辰
馬汽船を興した。米穀商を起業した初代八馬兼介は、海運業に転
じ、その跡を継いだ三代兼介は、「八馬汽船」へ会社化を果たし
た。
 木村拓哉主演で再び注目された山崎豊子の「華麗なる一族」に
登場する「万俵家」のモデルとして知られるようになった岡崎家
は、前者と後者の中間に位置するケースだろう。
 土佐藩出身にして明治中期の神戸財界の中心人物である養父・
岡崎真鶴の後継者に迎えられた佐賀出身の元兵庫県庁勤めの岡崎
藤吉は、魚崎他武庫郡四ヶ村の村長に転じる一方で実業界に身を
投じ、酒造業界をターゲットにした銀行を創設するもそこが破産。
 起死回生を誓って駆けずり回ってかき集めたなけなしの資金を
元手に汽船業を興し、日清、日露の戦役で順調に手堅く船腹を増
やし、第一次世界大戦の絶頂期に、その所有船舶を高値ですべて
売り払って得た資金で神戸岡崎銀行を創設、金融業界に返り咲い
た経歴を持つ。
 こうした人々は、近年のベストセラー「金持ち父さん 貧乏父
さん」になぞらえれば、「金持ち父さん」のグループに入れてよ
さそうである(無論、同所の著者」ロバート・キヨサキのいう完
璧な「お金持ち」に至っていないファミリーもあるが)。

 後者の筆頭には、内田信也、山下亀三郎、勝田銀次郎の三羽ガ
ラスを挙げて、異論は出まい。この中で、内田、山下の二人も
「金持ち父さん」グループに線引きできそうだ。しかし、勝田銀
次郎は、「金持ち父さん」でもなければ、勤勉実直な「貧乏父さ
ん」でもない、第三の道を歩んだ人物だった、といえるのではな
いか。その生き様とは、どのようなものであったのか。
                     (この項つづく)


2007年6月21日(木曜日)

第二夜 底抜け!豪快!! 船成金の館あるいは勝田銀次郎傳(その1)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 神戸という町は、土着の人士だけでなく多くの他所者が造って来た
歴史がある。そうした中で幾つかのピークがあった。

 最初は西南の役で、神戸の町が反乱軍征伐の兵站拠点となった。
(平定後は、帰還兵がもたらした「厄介な土産」、最初のコレラ流行
という余計なオマケもついてきたが)。
 日清戦争では、神戸の貿易業界の一角を占めた華商勢力が一時的に
衰退することで出来た「エアポケット」に、日本人が食い込む余地が
作られ、日露戦争が契機となって日本人の商社活動も盛んになってき
た。その代表が兼松商店であり、あるいは鈴木商店であった。
 さらに勢いをつけたのが、サラエボでの一発の銃声で勃発した第一
次世界大戦であった。

 神戸は港を中心とした町の発展があったわけで、海運業とは切って
も切れない縁を持っていた。18世紀に兵庫津に本店を置き、オホーツ
ク海まで進出し淡路出身の高田屋嘉兵衛がまず思い浮かぶし、西南戦
争では廻船問屋「長門屋」の主・長州出身の光村弥兵衛が巨万の富を
築いた。弥兵衛は明治20年に61歳で没するが、時価3000万円の遺産を
相続した嗣子・利藻は、元町通の写真師・市田左右太に師事して写真
撮影に没入。従軍カメラマンとして日露戦争に赴き、乃木大将とステ
ッセル将軍の「水師営の会見」を撮影し、そらに写真印刷技術に興味
を抱き、現在の光村印刷株式会社に連なる印刷業を興した。
 
 そして第一次世界大戦では、成金の類が世の中を跋扈した。その中
でも神戸に拠点を置いた三人が飛びぬけて群を抜いていた。
 一人は茨城出身の内田信也である。東京高商を卒業後、三井物産に
入社し、神戸支店で傭船の仕事を担当している時に、支店の隣の兼松
商店ビル(現海岸ビルヂング)2階で事務所を開いていた乾新兵衛の
行動を注意深く観察しながら、実業家としてのセンスを磨いていた。
 もう一人は、愛媛出身の山下亀三郎であった。横浜の貿易商を転々
とするうちに海運業に携わるようになった。日露戦争で、持ち船が海
軍に徴用されて切っ掛けをつかむが、日露戦争後の反動と他部門の事
業失敗で窮地に追い込まれ、横浜を引き払って神戸で捲土重来を誓っ
ていた。
 そして、この話しの主人公・勝田銀次郎の登場である。

 第二夜は「評伝 勝田銀次郎」(松田重夫著、青山学院 昭和五十
四年刊)、「得山翁小偲録」(得山会編 昭和三十年)を元に、勝田
銀次郎の生涯と、彼が灘に残した一大建築が出来上がるまでのいきさ
つを綴る。  
  


2007年6月14日(木曜日)

第一夜が明けて 昼下がり灘中央筋のサンドでホットを味わう

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 読者の方から足掛け8ヶ月の連載と聞かされ、驚いた。
 新聞の連載小説みたいな形で細切れの文章となり、ま
た過去の赤尾善治郎と、近過去〜現在の私が交互に入れ
替わったり、さらに夜話にひっかけて、文章の内容とは
何の脈略も無い筆者の行った事のある店名を並べた小タ
イトルの命名など、お読みいただいた皆様は、さぞかし
面食らった方も多かったのではないだろうか。別の方か
らは身勝手なB型らしい(?)やり方と批判も頂いた。
最初のシリーズということで、こうした実験的なスタイ
ルで貫徹させていただいた、ということで御許しを願い
たい。

 赤尾善治郎を最初に取り上げたのは、其の存在が、従
来、脚光を浴びてはいないが、灘的には「花筵検査所」
という国の出先機関ができる一つのきっかけを作り、な
おかつ、「原田通のスパニッシュ洋館」という、割合ラ
ンドマーク的建物でありながらこれまで其の素性があき
らかでなかった物件の建設に関与した、というのが大き
な理由である。

 信州出身で神戸で成功を収めた財界人といえば、後藤
回漕店を創業した後藤勝造が思い浮かぶ。善治郎とは性
格は異なるが、あるいは神戸で赤尾商会を起こした背景
に同郷人の後藤の存在があった、という考えもできる。
 しかし、今日まで続く後藤回漕店とは対照的に、赤尾
商会が歴史の波間に消えたのは、この会社が良きにつけ
悪きにつけ、善治郎という存在に依拠した企業であった
ことが理由といえるのではないか。また花筵が神戸港を
代表する輸出商品であったことが今や忘却されているの
も、一つには第二次大戦による貿易の途絶によって、花
筵産業が崩壊したことが大きいだろう。
 戦後は、日米とも時期はずれるものの、大量生産の工
業製品が在来の軽工業製品を蹂躙し取って代わった時代
であり、花筵が敷物の返り咲くことが無かったのもある
意味では歴史の流れであったかもしれない。
 
 亜米利加をビジネスパートナーに一時代を築いた善治
郎が、B29の焼夷弾の降る中で一生を閉じたことに、
歴史の皮肉を感じずには居れない。本編でも書いたが、
日米が開戦に向かい、砲火を交える日々の中、そして最
後の瞬間の善治郎の胸中はどんなものであったのか。
 奇しくも同じ六月五日の空襲で、私の父方の祖母は中
山手教会の近くで火焔に行く手をさえぎられ、命を落と
している。あと百メートル山手へ上がっておりさえすれ
ば、という場所でその亡骸は見つかったのだという。
 善治郎の最期を知って、なにか無関係とは思えないよ
うな気がしたのも、今回、キーボードに向かったきっか
けの一つである。

 第二夜も、松山千春ではないが、長い夜になりそうな
予感がしている。


2007年6月7日(木曜日)

第一夜 夜明け前、阪急西灘を目指しアーケードを歩く

カテゴリー: - dr-franky @ 23時51分20秒

 私は、手元の「赤尾善治郎傳」の表紙の裏に、青インクで
書き込みがあるのに気付いた。

「昭和十七年十二月十三日 蒙恵贈
 今晩ヨリ警戒警報発令アリ 燈火管制下ニ繙(ひもと)ク」

 其の年の四月、太平洋上の空母ホーネットを飛び立ったドー
リットル中佐率いるボーイングB25爆撃機16機が、東京市、
川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市とともに神戸を爆撃し
た。
 このとき帝国陸海軍は、爆撃隊の策敵から帰還した海軍戦闘
機を陸軍戦闘機が敵機と誤認して撃墜するなど、大混乱に陥った。
 死者50人、焼失家屋2百戸余という被害が生じたのに対し、
帝国陸海軍は、B25爆撃機1機を、試作戦闘機(後「飛燕」
として制式化)が撃墜したのみだったが、真珠湾攻撃、マレー
侵攻と、連戦連勝に浮かれていた日本国内に対して、政府・軍
部は真実を伏せ、9機撃墜と偽りの戦果を喧伝した。
 だが、やがて「嘘が嘘を呼ぶ」かのように、日本軍はミッド
ウェー、ソロモンと各地で敗北を重ね、その実態とは、正反対
の虚報を大本営は垂れ流していくのであった。

 昭和十四(1937)年に疱瘡に罹って死線をさまよった末生還
し、日米開戦の昭和十六(1941)年の、西灘消防署増築に際し、
巨額の建築や資材購入費を寄贈した以外、善治郎の伝記の年表
に目だった事項は見当たらない。
 年表の「悠々自適」という4文字のほか、日米が開戦へと突
き進み、激突する中、善治郎はどのような心中で過ごしていた
のか。そのことを伝える資料は今のところ見出せていない。
 
 ただはっきりしているのは、善治郎が、昭和二十(1945)年
6月5日の空襲の時に、原田通の自宅で亡くなっていることだ
けだ。亜米利加を相手に商人道を歩んできた善治郎。その国の
焼夷弾の業火の中で一生を終えた其の彼の末期を思うと、私の
心中は複雑であった。

 私は、汽笛亭のドアを開けた。
 東の空は明るみ始めていた。したたかに酔いが廻った重い体
を引きずって、私はエルナードの石畳を西へ向かった。
 始発の三ノ宮行きに乗った。藤堂工務店の白いビルの向うに
銀色のドーム屋根が、朝の光に照らされて、僕をじっと見つめ
ていた。               (この項、おわり)

(おことわり)
本稿は服部純雄著「赤尾善治郎傳」(昭和十七年刊)、赤松啓
介「神戸財界開拓者伝」(昭和五十五年刊)等を下敷きに書き
下ろしたフィクションである。


2007年6月4日(月曜日)

第一夜 町カクテル「西灘」をオーダーする(その2)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 1936(昭和11)年、日本が国際連盟を離脱して既に久しく、伊太利亜、
独逸との同盟 を進め、国内では次の敵は亜米利加、というのが世間の一致
した見方となっていた。
 この年の十二月、善治郎待望の新邸が、西灘原田の地に姿を現していた。
 和風住宅の家並みが続く中で、突如立ち上がる白亜の塔屋は、衆目を集め
た。面積四百六十坪の敷地の奥に、西班牙風の白亜の館と、其の西側に伝統
的な和館が接して建てられていた(建坪百六十八坪)。
 建築の実務は、棟梁の儀久が取り仕切ったが、建物の通風、採光、プラン
や構造、水便などは善治郎の提案が生かされていた。
 とりわけ四十五トンの鉄筋で支えられる塔屋を建ち上げるため、建物の基
礎の構築には並々ならぬ配慮がなされた。地盤面から相当掘り下げられた所
へ栗石を相当量投入し、三千俵のセメントできっちりと固められた。
 其のつくりは「堅実」を旨とする善治郎の人柄そのまま現したかのようで
あった。
 落成後、新邸に招かれた善治郎の知人が、「神戸に平和時代の要塞が出現
した」と感想を漏らしたという話が、素直にうなづける「城塞」の完成であ
った。
 
 翌年の四月、善治郎は諏訪山の常盤花壇で宴を設けて、出席した百名余の
政財界の名士に向けて嗣子・英太へ会社の経営を全面的に委ね、自らは勇退
することを正式に明らかにした。
 
 1937(昭和十二)年七月、盧溝橋から上がった火の手は、中国全土に燃え
広がる様相を見せ始めていた。十二月には南京が陥落した。
                         (この項目続く) 
原田通の赤尾邸と善治郎一家


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