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2006年11月30日(木曜日)

第一夜 花筵王の館 だるま堂で葛根湯を買う

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 相変わらず、農閑期には学校に通っていた善治郎だったが、学校から帰ると山へ薪を集めに出かけるのも彼の日課だった。囲炉裏端で煮炊き、食事し語らう、そうした場面に燃料として薪は必要不可欠であり、善治郎以外の子供たちも山に分け入っていった。
 だが、薪を求めて山を歩くうちに、善治郎は新たな「商材」に着目していた。
 果実を売りに歩くうち、善治郎は、善光寺の門前町である長野の町で、仏壇に備える花の需要が高いことを感じ取っていた。薪を集める山には多くの草花が咲き誇っていた。「これを売って歩かない手は無いぞ。」善治郎は考え、そして実行に移した。
 善治郎の読みはあたった。辻々で行商して回る善治郎の草花は売れに売れた。そして少しずつ蓄えも出来始めた。

 草花の行商にはげむ善治郎の脳裏に、或る時から別の気になる商品が占めるようになった。
 魚である。
 山国の信州でも、安茂里や長野からは、日本海は比較的近いところにある。しかし、水産物はかまぼこや干物でしか流通をしていなかった。その背景には、当時は冷凍・低温の流通技術がなかったことも一因としてあったのはもちろんだが、もうひとつは産地から消費地に至るまでの複雑な流通過程も生魚の流通を阻む原因の一つだった。とりわけ、かまぼこは、この頃の信濃地方では「猫またぎ」と揶揄されていた。本来は猫の好物であるはずのかまぼこですら、古くて敬遠されてしまう、という有様だったのだ。
 善治郎は考えた。果物や草花と同じで、自分で海まで買出しに行けば、新鮮な魚を長野の町の人に食べてもらえるではないか、と。
 草花の行商でたくわえた原資で、善治郎は越中へ水産物の仕入れに出かけることにした。


2006年11月23日(木曜日)

第一夜 花筵王の館(18時過ぎ 3丁目のギオンでブレンドをオーダーする)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

あの日以来、「原田のジェームス邸」は、私の心の中を大きく占めていた。

 梅田行きの特急が原田の大カーブに差し掛かる時には、じっと観察をしていた。
 軒先に並べられた丸瓦や、ベージュのモルタルの壁の仕上げのコンビネーションは、昭和初期に流行ったスパニッシュスタイルだが、塔屋の丸い銀色のドーム屋根との組み合わせは、やや調和を欠いていた。

 それに、こうしたスパニッシュスタイルの洋風住宅は、普通は寄棟にして屋根を作ることが多いが、二階の上や塔屋が立ち上がるところは陸屋根っぽいつくりで、どちらかといえば事務所建築に近いつくりなのも、変わっていた。
 塔屋と本体の繋ぎ方というか関係も、塩屋の館とは異なって素人っぽいテイストがあった。最初は、塩屋のジェームス邸を手がけた竹中工務店に、どこかの成金が「あんなん作って」と依頼をしたのかとも思っていたが、次第に私は、依頼した先は竹中ではないだろうと推測するに至った。

 それと、この家の正門とは別に、敷地の鬼門にあたる位置に建つ古いつくりの一対の石柱の存在も、この家の創建時期を考える時の撹乱要因になっていた。
 門柱には古めかしいデザインの鉄製の門扉がついていて、そのデザインはどちらかといえば明治時代の感覚でなされていた(もっとも戦時中に供出されている可能性もあるので必ずしもオリジナルの門扉とはいえないのだが)。
 ひょっとしたら、この場所に、今の建物が出来る前に建っていた建物のものなのか。
 いずれにせよ、やや場違いなこの石の門柱も、若き建築探偵というか「お屋敷小僧」を困惑させていた。

それから、何回か、ごくたまに授業の帰り道に途中下車して立ち寄るたびに、庭先の草花は季節にあわせて見事に植え替えられていた。この邸が、住人にかなり大事に維持されている様子がそことはなく伝わってきた。


2006年11月15日(水曜日)

花筵王の館 第一夜(宵の口)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時58分30秒

 文久3(1863)年といえば、5月に尊皇攘夷をとなえる長州藩が、下関で米国船に大筒をぶっ放し、しかるに翌月にはしっかり米仏に返り討ちの報復を受け、さらに頭に血が上って8月、クーデターを企てた長州勢が京都御所で警護の会津藩・薩摩藩と衝突した蛤御門の変が起きるなど、幕府崩壊へ歴史の歯車が激しく動いていた、そんな時代である。
 その蛤御門の変の起きる2週間前、信州は長野の町の近郊、安茂里の村に一人の男子が生を受けた。4人兄弟の末っ子にして次男だったので善治郎と名づけられたその子はやがて歴史と波濤のうねりを越えて、自らの人生を切り開いていくことになる。
 安茂里のほかの百姓の子と同様、善治郎も押さないときから家の野良仕事を手伝い、体が出来上がってくると、長野町へ町肥(人糞尿)を汲み集めに回った。
 家は貧しく勉学もままならなかった。「百姓の子に学問は不要だ」そんな昔ながらの考え方が強かった時代だったが、農閑期になると、善治郎は村の学校へ集中的に通って勉学に励んだ。善治郎は特に珠算が優れていた、という。
 或る学年で、善治郎は3学年分の試験をいっぺんに受けて及第点をもらった、という逸話も残している。その一方で、大変な腕白の餓鬼大将としても近隣に知れ渡っていた。 

 やがて善治郎の心には、学者にはなれないかもしれないが商人として成功したいものだ、という思いが芽生え始めていた。 
 
 善治郎の家には梅、桃、杏など実のなる木が多く植わっていて、季節になると多くの収穫をもたらした。善治郎の家では、それらを仲買人に売っていたが、利にさとい狡猾な商売人は、何かと難癖をつけては善治郎の家の果実を安く買い叩いっていったものだった。
 善治郎は考えた。たしかに果実には、大きいものも小さなものもある。でも誰しも、大きな果実ばかりを求めるわけではない。ここは一つ、自分で果実を担いで長野の町へ売りに廻ってやろう。
 次の季節、善治郎は、取り入れのすんだ果実を、似たような大きさごとにより分けた
うえで、さらに見栄えや味のよさそうなものを選りすぐって、行商へ向かった。今で言う選果作業と直接販売をはじめたわけだ。
 当然、選別のすんだ果実で、仲買人のマージンがない分割安で販売できる。善治郎の売る果実は、当然のことながら、町の人々に大層喜ばれた。
 そうして行商から戻った善治郎だが、村に帰ればやはり鋤と鍬を持って畑へ出て行った。


2006年11月8日(水曜日)

第1夜「花筵王の館」(阪急西灘で降りて夕映えの摩耶山を見る)

カテゴリー: - dr-franky @ 01時08分50秒

 昨年は太平洋戦争の敗戦から六十年であった。そして今年は太平洋戦争の開戦から六十五年にあたる。
 太平洋戦争末期の空襲では、もちろんこのナダの町も戦禍を蒙った。だが、今日、そうしたことは街角を歩いていても、表立っては私たちに見えてはこない。
 今回取り上げるのは、今日も街角で生き続ける、あの空襲の惨禍から甦ったある1軒の邸宅である。

 その建物を知ったのは十五年ほど前のことだった。
 ある都市探険仲間から、阪急西灘近くに旧ジェームス邸に似た洋館がある、という話を聞いた。旧ジェームス邸といえば塩屋の高台に聳え立つ南欧風の大邸宅だ。

 まだ千里山へ通学する学生だった私は、その翌日、新開地発阪急梅田行き特急後ろから二両目山側の車窓から、必死で線路沿いに視線を走らせた。
 春日野道を過ぎてすぐ、県美の白い豆腐の箱から視線を落とすと、見えた。銀色に鈍く光る、モスクのようなドーム屋根、スパニッシュの軒瓦・・・、全体構成はたしかにジェームス邸似の堂々たる館だ。
 途中下車して、近付いていくと、その館は産婦人科医の住まいで、北隣に大きな診療所が建っていた。その診療所と館の庭の境目には、スパニッシュの館とはいささかつりあいの取れない古めかしい石の門柱がある。
 邸の佇まいは、戦前を思わせるが、建具などは戦後に手を入れた部分もあるように考えられた。それと、銀色の玉葱坊主のドーム屋根も、なんとなくスパニッシュのファサードには不釣り合いだった。
 この邸の周囲は、すっかり昭和30年代以降の町並みになっていることもあり、「ナゼ、コンナモノガ、コンナトコロニ」という建築少年探偵の疑問は深まる一方であった。あの石の門柱が、その疑問に拍車をかけていた。

 なぜ、西灘にこの建物が建ったのか。


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