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2006年11月15日(水曜日)

花筵王の館 第一夜(宵の口)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時58分30秒

 文久3(1863)年といえば、5月に尊皇攘夷をとなえる長州藩が、下関で米国船に大筒をぶっ放し、しかるに翌月にはしっかり米仏に返り討ちの報復を受け、さらに頭に血が上って8月、クーデターを企てた長州勢が京都御所で警護の会津藩・薩摩藩と衝突した蛤御門の変が起きるなど、幕府崩壊へ歴史の歯車が激しく動いていた、そんな時代である。
 その蛤御門の変の起きる2週間前、信州は長野の町の近郊、安茂里の村に一人の男子が生を受けた。4人兄弟の末っ子にして次男だったので善治郎と名づけられたその子はやがて歴史と波濤のうねりを越えて、自らの人生を切り開いていくことになる。
 安茂里のほかの百姓の子と同様、善治郎も押さないときから家の野良仕事を手伝い、体が出来上がってくると、長野町へ町肥(人糞尿)を汲み集めに回った。
 家は貧しく勉学もままならなかった。「百姓の子に学問は不要だ」そんな昔ながらの考え方が強かった時代だったが、農閑期になると、善治郎は村の学校へ集中的に通って勉学に励んだ。善治郎は特に珠算が優れていた、という。
 或る学年で、善治郎は3学年分の試験をいっぺんに受けて及第点をもらった、という逸話も残している。その一方で、大変な腕白の餓鬼大将としても近隣に知れ渡っていた。 

 やがて善治郎の心には、学者にはなれないかもしれないが商人として成功したいものだ、という思いが芽生え始めていた。 
 
 善治郎の家には梅、桃、杏など実のなる木が多く植わっていて、季節になると多くの収穫をもたらした。善治郎の家では、それらを仲買人に売っていたが、利にさとい狡猾な商売人は、何かと難癖をつけては善治郎の家の果実を安く買い叩いっていったものだった。
 善治郎は考えた。たしかに果実には、大きいものも小さなものもある。でも誰しも、大きな果実ばかりを求めるわけではない。ここは一つ、自分で果実を担いで長野の町へ売りに廻ってやろう。
 次の季節、善治郎は、取り入れのすんだ果実を、似たような大きさごとにより分けた
うえで、さらに見栄えや味のよさそうなものを選りすぐって、行商へ向かった。今で言う選果作業と直接販売をはじめたわけだ。
 当然、選別のすんだ果実で、仲買人のマージンがない分割安で販売できる。善治郎の売る果実は、当然のことながら、町の人々に大層喜ばれた。
 そうして行商から戻った善治郎だが、村に帰ればやはり鋤と鍬を持って畑へ出て行った。


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