年が明けて大正10(1921)年5月。
銀次郎に、大きな変化が起こった。
なんと第14代神戸市会の議長に選出されたのである。
本業の海運は相変わらずの不景気だが、政治家としての銀次郎の
活動はますますその比重を増すことになった。
そして、翌6月。ついに待ちに待った青谷の新邸がひとまず竣工
の運びとなった。
全体計画からすれば、まだ第二期の段階ではあるが、銀次郎と家
族の住まいの形として一応の完成を見たので、議長就任とあわせて
お披露目をしようと、銀次郎は決めたのであった。
新緑が梅雨で鮮やかに浮かび上がった観音寺山の麓、春日野から
の坂道を歩いてきた人々は、山麓の道に立ち上がった御影石の擁壁
にまず目を見張った。
やがて築地塀がつづく道へ出た。緩やかな上り坂をしばらく行く
と、前方に花崗岩を積んだ小屋が見えてきた。大きな木製の扉があ
った。
「これはどうも馬なし車の小屋みたいやぞ」誰とは無く言葉が漏
れた。まだまだ人力車が一般的で、自動車を保有する者が少なかっ
た1920年代初頭、自動車用ガレージを自宅に作った御仁はそう
そう少なかったのだ。
砂利敷の広場に出た。
玄関には破風の屋根が掛けられ、ガラスをはめ込んだ格子戸の扉
が出迎えている。
和風建築のように見えて、ガラスの大きな引き戸が迎える、とい
うのは、この時代の人々にとってはある意味「ハイカラ」な趣味に
写ったらしい。
そうこうしているうちに、引き戸ががらっと開いて、羽織袴姿の
銀次郎が「よう来られた。さあ上がったあがった」と手招きする。
それはちょっとした探険の始まりであった。(この項つづく)


