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2008年5月31日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(45)

カテゴリー: - dr-franky @ 02時11分27秒

 年が明けて大正10(1921)年5月。
 銀次郎に、大きな変化が起こった。
 なんと第14代神戸市会の議長に選出されたのである。
 本業の海運は相変わらずの不景気だが、政治家としての銀次郎の
活動はますますその比重を増すことになった。
 そして、翌6月。ついに待ちに待った青谷の新邸がひとまず竣工
の運びとなった。

 全体計画からすれば、まだ第二期の段階ではあるが、銀次郎と家
族の住まいの形として一応の完成を見たので、議長就任とあわせて
お披露目をしようと、銀次郎は決めたのであった。

新緑が梅雨で鮮やかに浮かび上がった観音寺山の麓、春日野から
の坂道を歩いてきた人々は、山麓の道に立ち上がった御影石の擁壁
にまず目を見張った。
 
 やがて築地塀がつづく道へ出た。緩やかな上り坂をしばらく行く
と、前方に花崗岩を積んだ小屋が見えてきた。大きな木製の扉があ
った。
 「これはどうも馬なし車の小屋みたいやぞ」誰とは無く言葉が漏
れた。まだまだ人力車が一般的で、自動車を保有する者が少なかっ
た1920年代初頭、自動車用ガレージを自宅に作った御仁はそう
そう少なかったのだ。

 砂利敷の広場に出た。
 玄関には破風の屋根が掛けられ、ガラスをはめ込んだ格子戸の扉
が出迎えている。
 和風建築のように見えて、ガラスの大きな引き戸が迎える、とい
うのは、この時代の人々にとってはある意味「ハイカラ」な趣味に
写ったらしい。

 そうこうしているうちに、引き戸ががらっと開いて、羽織袴姿の
銀次郎が「よう来られた。さあ上がったあがった」と手招きする。

 それはちょっとした探険の始まりであった。(この項つづく)

 


2008年5月24日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(44)

カテゴリー: - dr-franky @ 18時27分02秒

 無事、国際汽船が設立されると、松方幸次郎が渡英し、国際汽船、川崎汽船、そし
て鈴木商店倫敦支店との三社で共同配船のための取り決めを交わした。対外的には
川崎、国際、そして鈴木の称号「かね辰」の頭文字をとって「Kライン」を名乗った
この同盟は、大戦後の不況の中を、欧米の海運会社とわたりあった。
 しかし、そこに参加している会社からすれば、相変わらずの自転車操業、という
状態であった。

 そんな中、伊太利亜ゼノア市で、国際労働機関(ILO)の第二回総会が大正九
(1920)年6月に開催されることになった。この総会では、海上労働の問題が
協議されることになっており、日本へも政府と、船主、船員の代表者の出席要請が
ILOからなされた。

 その当時の我が国の船員の団体は、鈴木文治らが結成した労働者の相互扶助組織
である友愛会の海員部や、海員博済会、海員共同救済会、海員自治会、海員共済会
という5団体があった。友愛会海員部の指導者は、かつて明治四十五(1911)
年に本邦初の海上サボタージュを経験した浜田国太郎で、大戦期には好況を背景に
他の団体と船主に対して賃上げなど待遇改善の共同戦線を張った。そうした中で、
海員団体の合流が考えられたのも自然な流れであった。しかし、そこは結成に至っ
た経緯も異なる団体の寄り合い所帯の悲しさ、代表者選びの段階から話し合いは紛
糾し、労働者の大同団結はいつの間にか自然消滅してしまった。
  
 こんな状況だったから、ゼノアへの代表団メンバーの選定も最後まで紛糾した。

 一方の船主側も、やはり代表者を選考しなかればならなかったことに違いは無か
ったが、こちら側も日本郵船、大阪商船、東洋汽船といった大企業のいわゆる「社
船」系と、山下や内田、銀次郎ら個人経営的な船主の「社外船」系は、ことあるご
とに対立していた。
 しかし、不況下にあって足の引っ張り合いでは、欧米各国に遅れをとる、という
意識が、この頃には社船、社外船双方の船主達の共通認識となり始めていた。
 社外船主のグループである日本船主同盟会と社船グループとの会合で、日本郵船
社長の近藤廉平が、「社船、社外船の区別無く、全日本の船主団体がいまこそ必要
だ」と説いた。これが、過去のしがらみを断ち切るきっかけとなり、最終的に日本
船主協会が結成された。
  
 日本船主協会は、早速、海員側に先手を仕掛けた。賃下げ通告である。
 更には賃金の安い中国人船員を雇い入れ、日本人船員の解雇を打ち出した。
 (こうしてみると、90年近く経った今日、ある意味では同じ状況が繰り返され
ているのである)。港町には失業した船員があふれた。だが、それですら気休め程
度の「経営改善」でしかないのが、当時の状況であった。
 
 そうした中、青谷の銀次郎の新邸の工事は進められたのだった(この項つづく)。 


2008年5月17日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(43)

カテゴリー: - dr-franky @ 01時24分40秒

 国際汽船の設立に向けては、金子、山下らが中央政界に根回しし、
日本興業銀行などから社債引き受けの形をとった融資の約束を取り
付けた。

 船は銀次郎や、山下、内田といった船主以外に、強気で過大な大
戦需要を見込んだ結果、過剰なストックボートを抱え込んだ川崎造
船所の関連会社・川崎汽船が過半を拠出した。
 その川崎の松方幸次郎が、「新会社の役員はおい(私)の会社か
ら」と主張し始めた。
 大正8年、川崎汽船の初代社長・川崎芳太郎が病気のため辞任し
松方が造船所社長と兼務で川崎汽船社長のポストについた。
 海千山千の船主からすれば、新会社の発言権を得ておきたいとい
う思惑がある。そこへ20数名の役員の過半のポストを遣せと言う松
方の主張は受け入れがたい提案であった。
 特に、山下や内田たちにしてみれば、松方の国際汽船の社長就任、
という人事は回避したい事態であった。山下、内田ら3名の役員が
辞表を提出した。
 国際汽船の役員の暗闘が、次第に外部にも漏れ聴こえるようにな
ると、融資を担う金融団が二の足を踏み始めた。
 ここで、大合流が無に帰せば、今までの苦労が水の泡となる。松
方、反松方の2グループの間を取り持とうと金子直吉は斡旋に動く
が、山下、内田らは態度を硬化させた。

 まずは、金子が暫定で役員代表という立場で、社長代行の役回り
を担い、山下、内田らの説得を続けた。ついには、金子が首相官邸
へ国際汽船役員全員に召集をかけて、高橋是清大蔵大臣、野田卯太
郎逓信大臣らにも加わってもらって、ようやく松方の社長社長就任
を認めさせ、山下、内田ら3名に役員への復帰を約させ、大正9
(1920)年の株主総会で正式に国際汽船の体制が整ったのだった。
 それはまさしく、前途多難な船出であった。

 銀次郎も、心情的に山下や内田の立場を支持していた。しかし、
大局からすれば、山下も内田も大人の対応をするべきだ、という心
情を抱いていた。いや、銀次郎にしてみれば、この国際汽船の構想
の破綻は、自らの実業家としての生命が終わる、という思いであっ
たかもしれない。

 「どうかされましたか。」青谷の普請場で、ぼうっと物想いにふ
ける銀次郎に、平太郎が声を掛けた。
 平太郎自身、折に触れ海運業界の苦境を耳にしていた。だからと
言って、消して弱音を吐かない頼もしい施主である銀次郎が、とい
う気持ちからだった。
 「いや、何でもないよ。しかし、お陰さんでいい形で日に日に出
来上がって行くのが、何よりの楽しみじゃよ」。
 敢えて気丈な面持ちの銀次郎であった。   (この項つづく)

ファンエルマーク’K’


2008年5月10日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(42)

カテゴリー: - dr-franky @ 11時51分14秒

 1週間、お休みしてごめんなさい。

上棟式も済んで、新邸の普請が順調に続く一方で、銀次郎の本業の海運
業界には、浮揚の兆しは見られなかった。神戸港沖でも累々と商船群がブ
イに係留されて、諏訪山から眺めれば、西陽に赤く船腹が照らされる、と
いう光景がここのところずっと続いていた。
 それは小樽、函館、新潟、横浜、名古屋、門司など主だった港町では、
どこでも見られた光景だった。

 時計の針を半年ばかり戻して、大正8年の春まだ浅い、ある日の花隈の
いつもの料亭。
 山下亀三郎、内田信也や銀次郎をはじめとする船主たち、それに鈴木商
店の金子直吉が三々五々集まって、この海運不況の打開策をどうしのいで
いくか、話し合いがもたれていた。
 とは言っても荷が無ければ船を動かすあてはない。妙案が出るわけでも
なく、次第に出席者の間に重い空気が流れてるようになった。

 金子は黙想しているのか、瞼を閉じている。沈黙に耐えかねたかのよう
に、金子と同じ年の山下が、「金子君よ、狸寝入りせんと、何かええ考え
はないか」と少しいらだち気味に言葉を投げかけた。
 
 金子は、ゆっくりと、瞼を薄く開いて、ぶっきらぼうに返した。

「簡単じゃ。日本からボロ船を2、3隻スエズ運河へ回航して、運河の途
中でわざと座礁させるんじゃ。そうすりゃ、航路が迂回する分、船が足ら
ん言うて、引き合いも増えるじゃろう」。

 突飛な、人を喰った物言い。しかし一同はどっと沸いた。座の空気も和
んだ。

 景気のよかった頃は、山下、内田、勝田などと個人経営的な船主でもやっ
ていけた。しかし、このような時代では脆弱な中小企業である。答えは大同
団結しかなかった。
 大正8(1919)年8月。松方幸次郎(川崎造船所)など造船業者、山下、
内田、勝田など社外船主各社が所有船計50万tを持ち寄って「国際汽船」
が設立された。
 しかし、「かちかち山」の「狸の泥舟」ではないにせよ、危うさを伴っ
た新会社の船出であった。             (この項つづく)
 大扇港之図(大正中期)


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