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2008年3月29日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(37)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時41分15秒

 大正8年の年明け早々、武田先生が、銀次郎の新邸の着工に向けた打ち合わせに、
一人の青年を伴って、生田町の銀次郎の屋敷を訪ねてきた。
 
 「このたびはお世話になります。」改まって銀次郎は、武田先生を迎えた。
 「名古屋へ赴いてからというもの、なかなか神戸へ寄せていただく機会に恵まれず、
 御無沙汰しております・・・。漸く、新しい邸のプランも出来上がりましたので、
 これからは、更に具体的な詰めをしなくてはなりませぬ。そこで、勝田さんの御意
 見を承って、図面を描き起こす仕事を、この岩崎君に委ねたいと思っております。」
 と銀次郎は、伴ってきた青年を紹介した。

 「初めてお目にかかります。武田先生の下で製図の仕事をさせていただいておりま
 す、岩崎平太郎と申します。」
 まだ二十代半ばという趣の、書生然とした平太郎青年を銀次郎はまじまじと眺めた。

 「岩崎君は、二十六歳でありますが、桑港での万国博覧会の日本館の現場や、京都
 岡崎の下村邸など、製図と現場管理について豊富な経験を積んできた優秀な技術者
 であることは、私が保証します」。武田先生は任せてやってください、という表情
 である。「岩崎君には、私の代理で、勝田さんの御宅が出来上がるまで、神戸に移
 って貰って、住み込みで勝田さんの御宅につきっきりで仕事をやってもらうことに
 しています。」

 話をするうちに、銀次郎は、平太郎青年が大和・吉野の生まれで、京都で社寺の修
復に携わった後に、桑港に赴いたこと、現地でも仕事の合間を縫って各地を見て廻っ
たことを知った。
 武田先生に促されて、平太郎は一枚の図面を取り出し、銀次郎に見せた。
 「まだまだ下書きですが、新しい御宅の立面図案です」はにかみながらも、平太郎
は銀次郎の眦をしっかと見据えていた。

 「よし、岩崎君。しっかりやってくれ給え。わしもどしどし意見する」。
 銀次郎は、まだ若いこの「製図工」の頭脳と指先に、自分のイメージの具体化の作
業を委ねることを決めたのだった。             (この項、続く)
  


2008年3月22日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(36)

カテゴリー: - dr-franky @ 21時23分35秒

 銀次郎と、武田先生との交渉は、その後も幾度と無く続いた。
 
 「大艦隊が神戸に寄港しても」大丈夫な規模、というのが銀次郎の
注文だったので、武田先生もかなりのびのびとプランを描いたのだが、
色々と銀次郎なりに思うところがあって、平面計画は幾度と無く描き
なおされた。

 大正8年も目前に迫った年の瀬。銀次郎はようやく新邸の計画を承
認した。
 霊峰摩耶の麓に、雁行して広がる殿舎、東に主玄関と客殿を置き、
南向きの場所には、主人室と夫人のための部屋、事務方や台所は西側
に。さらには、当時としてはまだ珍しい鉄筋コンクリート造の蔵も作
る。先行して普請を進めていた山下亀三郎や内田信也の住まいも検分
した上での、銀次郎ならではの「城」、ともいうべき新邸が、具体的
な形を持って姿を現したのだ。
勝田新邸平面計画図

 プランのつめが終わると、具体的な立面に移る。しかし名古屋の高専に赴任している武田先生と海運業界の寵児・銀次郎、多忙を極める二人がそうおいそれと打ち合わせの日程が取れるワケではない。
 そこで武田先生は、信頼する愛弟子を銀次郎の下に差し向けることにした。                   (この項つづく)


2008年3月16日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(35)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時40分00秒

 大正7年11月16日、ちょうど5日前に第一次世界大戦が終結した直後
の東京・青山。
 銀次郎の寄贈した青山学院高等学部校舎の落成記念式典が挙行されよ
うとしていた。
 陸軍軍楽隊による演奏、聖書の朗読、そしてウェインライト博士によ
る祈祷の後、寄贈者の銀次郎が紹介された。
 銀次郎は、講堂の壇上に上がった。

 来賓の数600余名、学校関係者訳60名と学生900名を前に、銀
次郎は話し始めた。
 「・・・私が本学にお世話になったのは、明治24年から25年のこ
とで、当時の院長は本多庸一先生であった。ミス・ヴェイル女史今はミ
セス・ビショップからは様々なことを教えていただいた。
 学校を出てから実業界に身を投じて、学校は長い間御無沙汰をして失
礼をしていた。」
 そして銀次郎は高木院長との出会いから始まる今回の寄贈のいきさつ
に触れた後、学友の一部に「なかなか社会で良い地位に就けない」とい
う不平を述べる者があるということを紹介しつつ、「学閥を頼るのでは
なく、世の中で一人立ちの出来る人物、他に頼らず独立独歩の人間を育
成するのが青山学院の教育方針であって、学閥や他の力にすがって地位
を得ようとする者は出ないはずだ。日本には確かに官学偏重のきらいが
あるのは事実だが、日本の将来を背負って立とうとする者は人に頼る思
想を持つべきではない」と諭した。

 続いて、高木院長が、建物受領の辞を述べた。
 高木院長は「官立の学校や事業に寄付をする者は多いが、私人の事業
に寄付をするものは少ない。それは前者には叙勲などの恩賞が与えられ
るのに対して、後者には何ら報われない。しかし、勝田氏はそのような
ことを気にも留めず、母校を想い、その発展を祈念して多額の寄付を申
し出られ、そのお陰で本校は更なる発展の礎を築くことができた」と銀
次郎への感謝の意を伝えた。

 銀次郎は、この年、高額納税の功で、貴族院議員に推挙せられた。
 ある意味で、銀次郎の絶頂期は、この大正7年であったのかもしれな
い。青山学院の寄贈がひと段落着いて、次はいよいよ青谷の地に、自分
の城を建てる構想を実現する時だ、と銀次郎は決意を新たにしたのだっ
た。                    (この項、つづく)


2008年3月9日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(34)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時44分26秒

 米騒動が起こっても、大方の世間の見方は、「大戦、終結近し」であった。
 しかし、金子直吉は、本店焼き討ちの際の自分への懸賞金など「ヘッチャラ」
とどこぞの「孫ゴクウ」ばりに、相も変わらずの大風呂敷を広げていた。
 それに影響を受けていたのか、我らが銀次郎、大阪鉄工所に、「おい、まだ
まだ船が必要だ」と、新造船4隻を発注した。
 「さすがは勝田はん、やることがちゃうわい」などと、世間ははやし立て
ていたが、裏では「何を考えてるのや」、というのが、一致した見方だった。
 船価は、天井値に張り付いたまま。しかし、もう上がる要素はない。

 内田信也が心配顔で、「勝田さん、何を考えてはりますのや」と居留地の事
務所へやってきた。
 「いや何、金子さんや松方さんの話では、まだまだ欧州方面は手堅いみたい
だから・・・。それに、まだまだ日本の海運界は、船が足らんよ」と、勝田は
持論をぶった。
 抜け目のない船主達は、既に持ち船の整理に取り掛かっていた。ほかならぬ
内田自身も、である。その中での、勝田の新造船発注は、際立っていた。今流
に言えば「KY」呼ばわりされていてもおかしくない情勢である。

 そして 月、案の定、欧州は停戦協議に入った。

 今度は山下亀三郎が、大阪鉄工所に「今だったら、勝田の言い値の七掛けでも
お宅にとってはいい話じゃないか」と、暗に値引きの働きかけを始めた。
 それをどこで知ったのか、銀次郎は「男は一旦した約束は守るものだ。当初の
契約どおり、ことを進めて欲しい」と大阪鉄工所に伝えたのだ。
 これには、旧知の友も、二の句を継ぐことは出来なかった。

 大正7年11月、銀次郎が情熱を傾けた東京・青山学院の「勝田館」が、その
全容を現した。
 その頃には、停戦協議は成立して、欧州に久方ぶりの和平が訪れていた。
                           (この項、つづく)
勝田館落成(大正7年11月)


2008年3月1日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(33)

カテゴリー: - dr-franky @ 14時14分51秒

 ところで、欧州の戦争が始まってからというもの、日本国内は猛烈なインフレーションに
襲われていた。
 特に主食の米は、大正六年後半から供給不足の傾向に、ブローカーや富商の買占めが
拍車をかける形となり、暴騰傾向が続いた。
 翌七年七月、富山県魚津の沖仲仕でもある漁村の女達が、県外へ米を移送する汽船へ
の荷揚げを阻止する動きに出た。これが後年「米騒動」と言われるようになる一連の騒擾の
端緒となった事件であった。魚津での動きは、八月三日には同県西水橋町で、米屋や質屋
等への襲撃、いわゆる「越中女一揆」と言う形で波及し、瞬く間に全国に連鎖していった。

 そして、ここ神戸でも・・・。
 八月十二日、暑い夜だった。銀次郎は、新生田川に程近い、生田町の屋敷で休んでいた。
家の縁でステテコ姿で涼んでいた銀次郎は、俄に市中に鳴り響く半鐘で、ふと我に返った。
 「火事か・・・」。
 しばらくして、表戸をどんどん叩く物音がした。
 爺やが飛んできて、「御主人様、会社の松尾様がお見えです。至急お伝えしたいことが
あるそうです」。
「構わんからここへ通してくれ」。

 若手社員の松尾が庭へ通された。「松尾君、何か急な事態でも起こったのか」
 「社長、東川崎町の鈴木商店が暴徒に襲われました」。「えっ・・・」
 「近所の神戸新聞社も火を放たれたようです」。
 「会社の方は大丈夫か」「今のところは。残っている社員でこれから寝ずの番を
 します。社長は、御自宅の戸締りをしっかり固めてください。幾つかのお家に
 も暴徒が押しかけているようです」。「わしも直ぐ行く」。
 松尾を送り出してから、芳夫人が不安げな表情を見せた。
 「おそろしおすなぁ」「芳、案ずるな、先に休みなさい」。
 銀次郎は、目立たない身なりで家を出て、神戸駅の方角を目指した。
 道中、小さな米屋や質屋が打ち壊しに遭った現場に行き当たった。別の米屋の
店先では、職工のような身なりの男たちが徒党を組んで、米を差し出すように主
人に迫っているのが見えた。
 中山手通近くの湯浅竹之助の洋館造の屋敷の前にも人だかりが出来ていた。

 鈴木商店が陣取っていた旧のミカドホテルの建物は、無残にも焼け落ち、余燼が
ぶすぶすと音を立てて燻っていた。
 元町通を東へ進んだ。途中、四丁目の相生橋警察署の分署の前を通ると、建具は
壊され、折れ曲がったサーベルが転がっていた。「警察もあてにできないのか・・・」
銀次郎は無力感と、焦燥感が入り混じった心持で、旧居留地の事務所に着いた。

 「皆、ご苦労さんやった」。「酷いもんです。兵神館もやられたようです。何でも金子
さんの首に壱〇万円の懸賞金が掛かっている、という物騒なデマも流れています。」
 
 「これは、もう軍隊しか事態の収拾はおぼつかんぞ」銀次郎は、山下亀三郎の事務
所へ電話した。
 「勝田君、鈴木のご家中、金子はんは無事や」。開口一番、山下は銀次郎に最悪の
事態が避けられたことを伝えた。「もう後は、姫路の師団しか打つ手はないですな」。
「それは、わしも同感だ。しかし、知事が煮えきらんのや。もう少し押してみないと」
 結局、清野知事が姫路師団に出動を要請したのは、翌十三日の午前5時のこと
だった。                        (この項、つづく)
 


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