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2007年12月29日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(26)

カテゴリー: - dr-franky @ 14時57分51秒

 時は少しさかのぼって、去年(大正四年)の年の瀬近くのことだった。
 銀次郎が学んだ東京英和学校改め青山学院の高木壬太郎院長が、西灘の関西学院の視察のため来神することになった。銀次郎を始めとする京阪神在住の学友が諮って、宿舎の神戸ミヤコホテルで高木院長一行の歓迎の小宴を催すことになった。
 その席上、高木院長は出席者に感謝の意を表すと共に、現在計画中の青山学院の施設や教育課程の拡充構想をあきらかにした。
 高木院長は、その二年前に院長に就任して早々、青山学院の学科充実、中等部の開設などの構想を打ち出した。その実現に際しては、学生数の増加が当然のことながら見込まれ、、校舎の増改築が必要となっていた。そこで、高木院長は第一期十年で百二十万円という多額の募金活動を開始し全国の学友を行脚しては、拡張案の説明と寄付への協力を訴えていたのだ。
 宴席に移ったときに、銀次郎は高木院長と雑談していた。「いや、拡張計画という大風呂敷を広げていて何なのですが、実は8年前に新築した大講堂の雨漏りが止まらなくて。工事には足場を組まなくてはならないし、本格的な修理のために資金を確保しようとするのですが、貧乏所帯ナものですから、ついつい他の急な出費に消えてしまうので、困ったものです」。
 「なかなか、やりくりは難しいものですな。業者の見積もりはどれくらいなのですか」銀次郎は何気なく高木院長に尋ねた。「そう、八百円程度です」。「そうですか」。その場は、その話しはそれで終わりとなった。
 翌朝、銀次郎は勝田商会に出て、しばらくして高木院長を改めてミヤコホテルに訪ねた。
 「いや、昨日はお世話になりました」。高木院長がにこやかに出迎えた。「院長さん、せっかく神戸までおいでくださったのですから、手ぶらで帰っていただくのも、申し訳ないと思いまして、これはお土産代わりと思って、どうかお納めになってくださいまし」と銀次郎は、金一封を高木院長に差し出した。
 中身は現金千円であった。
 「これは・・・」高木は少し戸惑いながら銀次郎に尋ねた。「いや、なかなか東京へ赴くこともままならないので、せめて学校のお役に立てられたら、という気持ちからです」、と銀次郎は応えた。
 高木は、前夜の雑談のことを思い出し、そして銀次郎の真意を慮り、感激に堪えないという面持ちで感謝の言葉を贈った・・・。
 その後、今年に入って、正式に募金に協力をしようということで、銀次郎は同業者である広海幾太郎らとともに京阪神の学友代表として募金趣意書に連名で署名して、募金運動を呼びかけるようになっていた。そこで景気づけに、と銀次郎はこんどは2万円という大金の寄付を、事務局に申し出た。それはその年の7月までの寄付金合計金額四万円の半分近くを占めるものであった・・・。

 銀次郎が思いをめぐらしている間に、会合の議事はことごとく終わり、宴席に移った。金に糸目はつけない船主達である。花隈の芸者集でも折り紙つきの名妓が座敷には呼ばれていた。やがて上を下にのドンちゃん騒ぎに突入していった。
 酔いに身を任せながらも、銀次郎は、「同じ金を遣うのなら、いっそのこと、ドンとやってやろうではないか」、と母校への「贈り物」をしようと心に決めたのであった。                           (この項つづく)

 本年も「灘建築夜話」を御愛読くださり、まことに有り難う御座いました。
 来る新年も毎週更新を目指して、更に精進する次第です。引き続き、宜しくお願い申し上げます。                          筆者 拝


2007年12月22日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(25)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時02分04秒

 欧州戦線では、英仏軍と独軍が既に塹壕をスイス国境から英仏海峡まで
掘り抜いて対峙する、という構図に嵌まり込み、戦線のいたるところで、
無数の突撃と機関銃の掃射や毒ガスによる応酬が繰り返され、死傷者は増
えていく一方であった。

 欧州への物資輸送は相変わらずひきもきらない。
 持ち船が6隻となり、傭船業を自分の商売の中心に据えようと考えてい
た銀次郎は、貿易業も行っている勝田商会の組織を、汽船会社へ変換して
いく必要を感じていた。
 こうして、新たな会社の設立を銀次郎は決断する。大正5年8月、旧居
留地の仲町二十七番地に、勝田汽船株式会社を設立。銀次郎は代表取締役
に就任した。勝田商会は、次第に銀次郎のグループ企業の管理会社的な性
格を持つようになった。

 海運会社の会合に出向くと、内田信也が、「いや〜、読みがどんぴしゃ
当たったとはいえ、ここまでとは思いませんでしたなぁ」と如何にも笑い
が止まらない、といった風で話す。銀次郎にしても、以前では想像も付か
ない一億円近い大金が手元にある状態である。
  
 金回りのよさ以上に、大きな変化が銀次郎の身の上に起こった。その年
の市会議員選挙に銀次郎は担ぎ出された。男気のある銀次郎だけに、人望
も厚かった。本人は乗り気ではなかったと思うのだが、なんと当選を果た
したのだ。
 銀次郎の、実業の世界から政治の世界への第一歩であった。

 「神戸の町中あげて普請ばやりですな」。銀次郎が山下に話しかけた。
 今日は、在神の船主の寄合である。日本郵船の神戸支店の新築が話題と
なった。栄町通をはじめとして、神戸のあちこちで、企業の社屋の新築が
相次いでいた。
 山下は、「いや、実はわしも、事務所を新築することにしたンだ」と打
ち明けた。「土地は旧の居留地に確保してある。設計は、東京の辰野さん
というエラい先生にお願いした。先生は日本で最初に「アーキテクト」に
なったお方で、英吉利にも留学して、工科大学で教鞭をとっていたのが、
東京で事務所を自営するようになった。日本銀行なんかも手がけている」。
 「ほう、日本橋の日本銀行ですか」。銀次郎は、ぼんやり、東京に居た
時分に垣間見た、建築中の日本銀行本店の様子を思い出していた。
 「そう、その東京の、英和学校だ。」議事が進む中で、銀次郎は自分の
青春時代の思い出の場所、東京英和学校のことを考えていた。

                         (この項つづく) 
 
 勝田商会設立の日


2007年12月16日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(24)

カテゴリー: - dr-franky @ 16時13分00秒

 銀次郎は、最初は持ち船よりもチャーター便の手配で利鞘を稼いでいた。
 いや、どちらかといえば、儲けてやろう的発想よりも、むしろ取引先の
頼みを要望に応える内に、儲けが溜まっていくという風だったかもしれな
い。それだけ、船を動かすたびに、莫大な利益が転がり込んだのだった。
 30年ほど前の神戸新聞の連載記事「海鳴り止まず」の記述を借りると、
「仮に、チャーターした船が不幸にも枢軸国側に撃沈されたとしても、乗
組員の葬式代、遺族への見舞金など支払っても、利益は充分に出た」のだ
そうである。乾新兵衛など、万が一の時の保険も掛けていない、という話
が伝わる(もっとも、この時代、英吉利の海運会社であっても船舶は無保
険だったという)。やらずぼったくりの保険屋に払う金はない、というい
かにも「金貸し新兵衛」らしい話ではある。一部の船主など、船齢ン十年
のボロ船をかき集めて、濡れ手に粟状態だった手合いもあった、という。
 こんな状態だったから、国内の船不足は深刻で、機関を外されて運河で
物置に身をやつしていた船殻まで、再艤装を施され引っ張り出される始末。
 
 そんな状況を、銀次郎は別の視線で見ていた。
「まだまだ我が国の海運業界は基盤が脆弱だ。優れた船は幾らあっても足り
ない位だ。」
 勝田商会は、大正4年には海福丸、永代丸、興安丸の貨物船3隻を買い入
れると共に、別に3隻の貨物船の建造の発注に踏み切った。

 神戸の商社・鈴木商店は、三井・三菱の大手に向うを張って、倫敦にも支
店を出していた。その頃には栄町通3丁目から、相生町の元ミカドホテルの
建物に移っていた鈴木商店には、毎朝、欧州を始めとして全世界からの暗号
電報が届けられ、番頭の金子直吉はそれらにすべて目を通し、頭脳をフル回
転させて次なる一手を打っていた。
 その金子が、「勝田はん、ウチの高畑が遣してくる報告では、まだまだ戦
争は長引きそうでっせ」という。

 欧州戦線は、当初の予想とは違って長期戦の様相を呈し始めていた。
                          (この項つづく)
     


2007年12月8日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(23)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 1914(大正3)年6月28日、墺太利=洪牙利帝国の皇太子フランツ・
フェルディナントが、行幸先のボスニアのサラエボで、セルビア人ガブリ
ロ・プリンチプによって、銃で狙撃され死亡した。後にサラエボ事件と呼
ばれる、この暗殺が直接的な原因となって、墺太利=洪牙利帝国はセルビ
アに宣戦を布告した。
 これに対し、墺太利によるボスニア併合を認める代わりにセルビアの独
立を認めていた露西亜帝国が兵員の総動員を発令。墺太利と同盟関係にあ
った独逸は8月2日、露西亜に、翌3日には仏蘭西に対して戦線を布告し、
後に第一次世界大戦と呼ばれることになる戦争状態に欧州はなだれ込んで
いった。 
 中立国であった白耳義に独逸軍が侵攻するに及んで、英吉利も8月4日
に独逸に宣戦を布告。日英同盟を結んでいた日本は、僚国英吉利や仏蘭西
などの連合国側の一員として8月23日、独逸に対して宣戦を布告した。
 9月には独逸が租借していた青島(チンタオ)に進軍し占領、また海軍
がやはり独逸が権益を持っていた南洋諸島を占領することになる。
 
 ここで時計を少し巻戻して、この年の6月終わり頃の日本を見てみよう。
 サラエボ事件当時の日本の経済界は、日露戦争後の反動不況のどん底で
あえいでいた。傭船業界も、船賃が底に張り付いた状態。どこも青息吐息
だった。

 三井物産神戸支店船舶部の内田信也は、東京に居た。内田の商才に目を
留めた同業他社が、彼を引き抜きにかかっていたのだ。先方の幹部との会
談の合間、ボーイが内田にフランツ・フェルディナント皇太子暗殺を知ら
せる号外を手渡した。
内田は一人つぶやいた。「もう雇われ人は、これっきりだ」。
 それまで収集していた情報の分析から、直ちに大規模な戦争状態になる
ことを洞察した内田は会談を途中で辞し、さらに三井物産本社に立ち寄っ
て、さっさと辞表を提出すると、神戸へ飛んで帰った。

 7月4日、亜米利加合衆国の独立記念日と同じ日、内田は神戸旧居留地
内の前町14番地(現在の神戸市立博物館西南隅のあたり)の二階建ての
二階を借り受け「内田信也事務所」の看板を掲げた。資本金は兄の四郎や
友人達からかき集めた二万円だった。

 二週目、墺太利=洪牙利帝国のボスニアへの宣戦布告を受けた日本の株
式市場は一時、株価が急落した。また船価はそれに輪をかけて暴落をした。

 すかさず、内田は手を打った。手始めに西宮の八馬汽船から第八多聞丸
をトン当たり月4千2百円の1年契約で借り受けた。直後から連合国軍へ
の物資輸送でチャーター船の需要が高まり、船価は急反発した。
 内田だけでなく、神戸のあらゆる船主が、「ここが勝負時」と読んでい
た。勝田銀次郎も、その一人だった。チャーターした船をまた貸しする。
さらに船を買い込み、人に貸す・・・。狂乱の大戦景気の幕開けだった。
                       (この項、つづく)


2007年12月2日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(22)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 船舶部の事務所からは隣の日濠館の2階が見て取れた。
 「覗き見というのはあまり感心せぬが・・・。あ、あそこは
乾さんの事務所だね」。銀次郎は答えた。

 「乾さん」とは、「金貸し新兵衛」と呼ばれていた乾新兵衛の
ことである。ここで脱線して乾新兵衛について触れておきたい。
 もともとは、八部郡北野村(現北野町)の前田甚兵衛の長男・
鹿蔵として生を受け、幼少の頃より兵庫・湊町の酒造家・乾家へ
奉公に上がった。後年の新兵衛は今で言えば合理主義者の代表の
ような人物であるが、そうしたベースでの働きぶりが次第に当主
の認める所となり、ついには夫に先立たれた主人の娘の新たな夫
として乾家に迎えられた。
 その直後、義父が急逝。莫大な遺産が跡を継いだ鹿蔵改め乾新
兵衛の手中に納まった。これが世間の妬みを買った。寄付の強要、
ごろつきを使っての金品の要求が、新兵衛を揺さぶった。いや、
正確に言えば揺さ振ろうとしたが、新兵衛は「払う筋合いのもの
はビタ一文払わない」と毅然とした態度を取り続けた。新兵衛を
誹謗中傷する壮士芝居が興行されても、新兵衛はたじろがなかっ
た。いやますますその態度を頑なにした。
そうした新兵衛の徹底した合理主義が、当時の一般的な日本人
のメンタリティーにはなじまなかったのか、「ドケチ」というの
が新兵衛に対する世間一般の抱くイメージとなっていた。
 新兵衛は、本業の醸造業のほかに、蓄えを元手に金貸しもした。
しかし、それは今で言えば庶民相手のサラ金ではなく、事業家向
けのノンバンク、とでもいうもので、鈴木商店の金子直吉も新兵
衛から融資を受けていた、という。

 新兵衛は、銀次郎が神戸で独立したのと同じ時期に船舶業に進
出した。その新兵衛の船舶業の事務所の様子が、内田の職場から
はよく伺えるのだ。
 見ると、黒い詰襟を着た新兵衛が、黒い電気コードと電灯具を
持って隣の部屋へ移動するところだった。新兵衛は竿で電灯を隣
の部屋の金具に引っ掛けて、スイッチをひねっている。
 「ああやって、電気代と電灯具代を節約しているのですよ。ど
うせ使うのは1つだって言ってね」。内田は笑う。「でも、理屈
には適っていますよね」。
 「昼飯も、手先のブローカーの山本と連れ立って洋食を食べに
行きますが、いつも山本が代金を支払っているみたいですね。あ
それからあの部屋の家賃もそうらしいですが。まあ、山本にして
みれば、乾さんに儲けさせてもらっている恩義があるからなので
しょうけどね・・・」。
 内田は、こうした徹底した新兵衛の「ケチケチ」作戦を目の当
たりにしながら、自らと照らし合わせている様子だった。
「ああでもしないと財産は築けないないものなのか・・・」、銀
次郎は呆れてというか、感心してというか複雑な気持ちで、三井
物産を後にしたのだった。       (この項、つづく) 
乾新兵衛


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