幸いなことにムメの病状はしばらくして快方に向かった。
しかし、今ひとつ、銀次郎には気がかりなことがあった。
同郷の先達である山下亀三郎の苦境である。
なけなしの資金をはたいて、亀次郎が船主となり、その持ち船
「喜佐方丸」を軍用船に差し出したのは以前に記したとおりであ
る。さらに、外国船を借り上げて「第二喜佐方丸」としてフル稼
働させた亀三郎は、やがて時価百五十万円とも言われる稼ぎを手
にした、といわれている(数千円あれば立派な一戸建住宅が手に
入った時代である)。
しかし、終戦後の反動不況の波を、山下はまともにかぶってし
まったのだ。瞬く間に利益は砂漠の蜃気楼のように失せてしまっ
た。海運業の厳しさを物語る出来事だ。
しばらくして、山下が横浜を引き払い、神戸に活動の根拠を移
した。数年前に日本政府に返還された旧居留地の事務所ビルの一
角が、新たな山下の活動拠点となっていた。
銀次郎は、山下の事務所へ顔を出した。
「おお銀次郎さん」。裸一貫に戻ったとはいえ意気盛んな山下
の表情を見て、銀次郎はほっとしていた。
「船は厳しいですな」、と銀次郎は声を掛けた。「いや、今回
はいい勉強をしたと思っちょる。しかし、まだまだ、世界は動い
ていくぞ。ますます海運は重要になる。その日に向けて準備に励
むだけじゃ」。
銀次郎も、まずは船主目指して、事業の足腰を固めることに専
念する日々。幸い、不況下にあったとはいえ、満州の取引はまず
まず軌道に乗りつつあった。
金のことはあくせくせず、その上面倒見のいい銀次郎、次第に
神戸の貿易業界の中でも世話役を自任するようになってきた。
(この項つづく)