2007年 10月
« 9月   11月 »
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031  
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
最近の投稿
2010年12月21日(火曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(75)
2010年12月19日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(74)
2010年7月19日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(73)
2010年6月28日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(72)
2010年3月28日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(71)
灘建築夜話 月別過去ログ
灘建築夜話 カテゴリ一覧
灘建築夜話 最近のコメント
最新の灘イベント情報
予定なし
オンライン状況
28 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが 灘建築夜話 を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 28

もっと...

2007年10月27日(土曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(18)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時59分06秒

 幸いなことにムメの病状はしばらくして快方に向かった。
 しかし、今ひとつ、銀次郎には気がかりなことがあった。
 同郷の先達である山下亀三郎の苦境である。

 なけなしの資金をはたいて、亀次郎が船主となり、その持ち船
「喜佐方丸」を軍用船に差し出したのは以前に記したとおりであ
る。さらに、外国船を借り上げて「第二喜佐方丸」としてフル稼
働させた亀三郎は、やがて時価百五十万円とも言われる稼ぎを手
にした、といわれている(数千円あれば立派な一戸建住宅が手に
入った時代である)。
 しかし、終戦後の反動不況の波を、山下はまともにかぶってし
まったのだ。瞬く間に利益は砂漠の蜃気楼のように失せてしまっ
た。海運業の厳しさを物語る出来事だ。

 しばらくして、山下が横浜を引き払い、神戸に活動の根拠を移
した。数年前に日本政府に返還された旧居留地の事務所ビルの一
角が、新たな山下の活動拠点となっていた。
 銀次郎は、山下の事務所へ顔を出した。
 「おお銀次郎さん」。裸一貫に戻ったとはいえ意気盛んな山下
の表情を見て、銀次郎はほっとしていた。
 「船は厳しいですな」、と銀次郎は声を掛けた。「いや、今回
はいい勉強をしたと思っちょる。しかし、まだまだ、世界は動い
ていくぞ。ますます海運は重要になる。その日に向けて準備に励
むだけじゃ」。
  
 銀次郎も、まずは船主目指して、事業の足腰を固めることに専
念する日々。幸い、不況下にあったとはいえ、満州の取引はまず
まず軌道に乗りつつあった。
 金のことはあくせくせず、その上面倒見のいい銀次郎、次第に
神戸の貿易業界の中でも世話役を自任するようになってきた。
                     (この項つづく)  


2007年10月20日(土曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(17)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 先の十五年戦争のときもそうだったが、明治政府も中国東北部での
日本軍の苦境は、国民に伏せていた。そればかりか新聞各社は、清国
との戦争のあとの下関会議での賠償金を引き合いに出し、露西亜から
どれだけの賠償金をせしめることが出来るか、などと「獲らぬ狸の皮
算用」的な記事で世情を煽った。
 別に自分がもらうわけでもないのに、人々の世間話にも賠償金のこ
とが話題に上るようになった。

 しかし、開戦から一年余り経過し、莫大な人的被害と引き換えに旅
順要塞を攻め落とし、戦線が崩れかかりながらも陸軍第三軍が奉天入
城を果たしたところで、日露両軍の戦線は膠着状態に陥った。
 さしもの露西亜軍も、日本軍から蒙った人的物的な損害は大きかっ
たが、いざとなればシベリア鉄道経由で援軍や物資の補給は可能だっ
た。日本軍は、巨人相手に精一杯背伸びしきった子供同然で、食料の
補給すらままならぬ有様であった。
 漸く、五月の日本海海戦で、連合艦隊が対馬沖でバルチック艦隊を
撃滅して制海権を押さえた事で、戦局は日本優位となった。だが、日
本の国力からしても、これは潮時といえた。

 一方のロシア側も、帝政に対する不満から「血の日曜日事件」など
民衆の蜂起が相次ぎ、内政に不安材料を抱えていた。
 最終的には亜米利加の斡旋で、日露両国は休戦し、講和会議のテー
ブルに着いた。交渉の結果、樺太、朝鮮半島と東満州鉄道の権益を日
本は手にすることになったが、賠償金は埒外であった。講和会議の内
容が国内に伝えられ、賠償金が入らないと判った民衆は失望し、やが
て小村寿太郎全権特使、さらには政府の姿勢を弱腰であると批判を強
め、東京の日比谷では焼き討ち事件が勃発、厳戒令がしかれる事態と
なった(9月5日)。
 
 その2日後の7日、神戸でも、神戸駅前・大黒座での政府批判と講
和反対の集会終了後、一部の聴衆が暴徒化し、湊川神社境内の伊藤博
文の銅像を引き倒し、市中を引き廻すという事件が起こった。暴徒は、
警官隊に鎮圧され、取り戻された伊藤の銅像は、密かに岩屋村の服部
兵庫県知事の別邸内に匿われていた、と言われている。

 こうした世情を銀次郎は冷静に眺めていたであろう。
 実は母ムメがしばらく前から、病床に臥せっていた。新天地を目指
したいという銀次郎の願いをじっと聞き入れ、漸く一人立ちした自分
を見守っていた。親孝行をせねば、と思っていた矢先のことである。
                       (この項つづく)


2007年10月6日(土曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(16)

カテゴリー: - dr-franky @ 16時58分16秒

 山下は、銀次郎の困惑をよそに話を続けた。「戦争になれば、船価は
跳ね上がる」
 「しかし、わしは持ち船を国の徴用船に差し出すことにしたンだ。徴
用船は割がいいからな」。
 
 「そうですか・・・」。
 亀三郎は、同郷の陸軍軍人・秋山真之と交流をしていた。亀三郎の日
露の情勢分析は、秋山からもたらされた情報に基づいていたことを、銀
次郎はこのときに走る由も無かった。
 車座になった参加者の中では、日露の情勢が当然の事ながら話題とな
った。しかし亀三郎は先刻とは打って変わってそ知らぬ顔をして、相手
の話に耳を傾け、時には大いにうなずいたりしていた。「・・・なぜ、
俺には話しを打ち明けたのだろうか・・・」銀次郎はぼんやりと考えて
いた。 宴はお開きとなり、銀次郎と亀三郎は再会を約して別れた。

 明治37(1904)年2月、外務大臣小村寿太郎は露西亜国大使クローゼ
ンを外務省に呼び、国交断絶を通告。数日後には、日本海軍が旅順港を
急襲し、ここに日露両国は戦争状態に突入した。

 銀次郎は、しかし淡々と日々の商いに没頭していた。もちろん、心の
中では、次第に海運への情熱が頭をもたげてきていた。だが、船を買う
には金が要る。今は中古のボロ船を買うにも、足元を見てふっかける手
合いがいるとも聞く。皆が船に殺到する今は、新参者が足を踏み入れる
場面ではない、という思いから、今は銀次郎は船主になるために備えに
徹しようと心に決めた。
 あるいは、従軍記者に憧れる銀次郎ではなかったが、自分の取引先と
大いに関係のある中国東北部が主戦場であるので、戦況に一喜一憂して
いたのではなかっただろうか。         (この項、つづく)          
 


30 queries. 0.040 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress