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2008年2月23日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(32)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時57分29秒

 「勿論ですとも。私は、住宅を大事なものだと考えております」。
 銀次郎は、後段の武田先生の言葉に少なからぬ驚きを受けた。
 その当時の建築界には、公共建築が上位で、商業建築があって、住宅建築は
余業、と見る風潮が少なからずあった。工科大学の卒業設計で、数奇屋住宅を
提出した安井武雄が首席卒業を逃した、とされる言い伝えがあるのも、当時の
風潮を現しているかもしれない。
 
 「どのようなお住まいが良いと、勝田さんは考えておられますか」。武田先
生は、銀次郎に投げかけた。
 「実は、敷地は決まっております。霊峰摩耶山の麓にある敷地です・・・。
妻が京の生まれ育ちなので、出来れば京風の趣の屋敷が良いと思っています。
さらに」銀次郎は続けた。「私達夫婦のためというよりも、広く神戸の町のた
めになる建物にしていただきたいのです。」
 「ほう、それは、どういったことでしょうか」。
 「私達夫婦二人だけなら、それなりの広さが有ればよいと思うのですが、私
達の間には子が居りませぬ。私達がいなくなったあとも、建物は残って神戸の
役に立って欲しいと考えているのです。
 そう、洋風のホテルは神戸に御座いますが、和風の建物で外国からの賓客を
もてなすことができるような立派な建物を作りたいのです。」
 武田先生は、これまでも様々な施主から住宅の設計の依頼を受けてきたが、
このような注文は初めてだった。 
「そう、欧米の大艦隊が寄港しても平気なくらいの」。
 武田先生は、この言葉を、ある意味「存分に腕を振るって欲しい」という
銀次郎の気持ちのあわられ、と受け取った。

 やがて、芸伎の謡と舞が始まった。武田先生と銀次郎は、しばし杯を重ね、
舞を見つめていた。

 「今日は、どうも有り難うございました。」
 そろそろ京都行きの列車に間に合うよう、武田先生を駅へ送り出さなければ
ならない頃合だった。
 「いえいえ、こちらこそ。ところで、今、新しい御宅のざっとした計画を練っ
てみました。この書付は差し上げますので、ご検討をいただき、御意見をお願い
します」。今度は、銀次郎が驚いた。手渡された紙片には、御殿式の邸宅のおお
よその間取りがインクの色も鮮やかに、描かれていたのだ。

 こうして、銀次郎の新しい「家作り」は、具体的な段階に移ったのだった。
                          (この項、つづく)
 


2008年2月16日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(31)

カテゴリー: - dr-franky @ 19時56分30秒

 「武田先生」との会談の機会は案外早く廻ってきた。出張の帰りに神戸に立ち寄る、
との連絡が、金田組の主人からあった。銀次郎は、諏訪山下の料亭で一席設けること
にした。
 
 初夏の、しかし、しのぎ易い宵の口、白い背広にカンカン帽の長身の紳士が、案内
されてきた。
 「こちらが、勝田汽船の勝田銀次郎社長さんです。」後からつき従ってきた金田が
銀次郎を紹介した。
 「初めまして、勝田といいます。本日は、お忙しい中、神戸にお立ち寄りくださり、
また私がごとき者にお時間をいただき、誠に有り難うございます」。
 「武田です。今は名古屋の高等工業学校の校長をしております」。武田と銀次郎は、
名刺を交わした。
 「おお、五一ということは、5番目にお生まれになった御長男ということでは」
 「ええ、勝田さんは御次男でしょうか」「いや、これは父の名前をもらったから
で、上に姉が居ります・・・。」
 金田からは、「武田先生」は福山の武家の出身と聞いていたが、案外ざっくばらん
な性格の御仁である。年も先生が一つ年長、杯を重ねるごとに、二人とも次第に打ち
解けてきた。
 「いやぁ、神戸は私も子供時分に、父に従って兵庫の町で過ごしたこともある町で
すが、随分と開けましたなぁ。」と武田先生は感慨深げに話した。
 「おお、先生は神戸に居られたことがおありなのですか」。
 「父が裁判官をして居ったので、長くはありませんが・・・。それから姫路や岐阜、
高知と、転々として、ようやく東京の本郷に暫く落ち着いておりました。それから英
吉利へ留学して、帰ってきて今度は京都の学校に赴任することになって・・・。
はは、根無し草ですな」

 「神戸では、最近では安養寺山(大倉山)の伊藤公の銅像台座をやらせてもらいま
した。それからも、公務で洋行する時など、神戸港で船の乗り降りはあるのですが、
最近は鉄道が便利になったので、神戸で時間を過ごすのは久しくなかったことです。」

 話をしていても、調子が合う。学があるというのは感じられるが、嫌味ではない。
銀次郎は、この人なら自分の家の作事を任せてもいいのではないか、と思うように
なっていた。思い切って、銀次郎は水を向けてみようと思った。

 「ところで先生は、方々の立派な建物を手がけておられるようですが、邸宅もおや
りになられるのでしょうか」。              (この項、つづく)  

 武田五一(四十三歳、博物館明治村蔵)


2008年2月9日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(30)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時56分55秒

年明けに誓いを立てて1ヶ月もたたないのに・・・、2週間の空白を
お許し下さい。 
タイトルどおり「底抜け」状態で大正の成金狂想曲を書き連ねている
が、この先、まだまだ続きます。それだけ、密度の濃い時代だったとい
うべきなのだろう。お陰で花筵王を超えて行きそうな雲行きである。

 開戦から4年が経過した。露西亜では革命が起き、ニコライが退位に
追い込まれた。戦いは終局に差し掛かりつつあった。
 銀次郎が精魂を傾けた青山学院の新校舎は、次第にその姿を現しつつ
あった。

 その一方で銀次郎は、自らの邸宅をどのように建てようか、構想を巡
らせていた。
 まず場所だ。須磨にはすでに内田が先頭を切ったかのように神戸の財
界人が屋敷を構え始めていた。市街地に近い布引には川崎造船所の川崎
家の邸宅があり、先代の正蔵から連綿と普請を重ねていた。すでに開け
た場所ではなく、できれば港が見える高台があれば言うことがないのだ
が・・・。
 そのとき人を介して、摩耶山下の青谷に銀次郎のうってつけの場所が
ある、という知らせが入った。
 
 ある日、銀次郎は青谷の高台に立った。茶畑や果樹の植わった一帯を
抜けると緩やかな斜面地の原っぱがあった。
 眼下には芽渟の海が広がり、遠く和泉や紀州まで見渡せた。
 近くには神戸高等商業学校や関西学院の校地があるが、まだまだ周囲は
開けては居ない。
 「よし、ここなら思いのままの普請が出来る。気に入った」。銀次郎の
決断は早かった。
 土地の次は、誰に頼むか、である。施工業者は、青山学院の工事も引き
受けている金田組にしようと考えていた。
 だが、金田組は、施工は優秀だったが、設計の人材は無かった。
 山下亀三郎は、会社に自前の建築部門を持っていて、お抱えの建築士に
図面を引かせていた。内田は神戸の設楽貞雄や、大阪の宗建築事務所に事
務所や邸宅の設計を任せていた。銀次郎自身も、辰野金吾に仕事を依頼し
ていたが、辰野先生は自身の建築家生活の最後を飾る議事堂の仕事に打ち
込んでいた。もとより、銀次郎としては洋風ではなく、和風の伝統的な邸
宅を建てたいと考えていた。辰野先生のところでは、もちろん和風住宅も
手がけてはいたが、銀次郎の求めるイメージには必ずしもそぐわない所が
あった。当時の和風邸宅といえば、大名屋敷然とした大仰な唐破風の車寄
せと入母屋屋根の御殿、というのが通り相場だった。
 銀次郎は、芳夫人の生まれた京都の、数奇屋風の佇まいを取り入れた屋
敷を求めていた。
 すると、金田組の主人・辰之助が、「今うちで神戸高等商業学校の新し
い研究所の仕事を頂いていますが、そこの設計をなすっている武田先生と
いう方がいらっしゃいますよ」という。
 聞けば、辰野先生の愛弟子の一人で、この春から名古屋高等工業学校の
教授に転任したが、それまでは京都高等工芸学校で教鞭をとっていたとい
う。「非常に絵筆が達者な方です」という。
 「そうか。お忙しい方のようだが、神戸に立ち寄られることがあれば、
お会いしたいと、伝えてくれぬか」。銀次郎は辰之助に伝言を託した。


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