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2008年2月9日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(30)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時56分55秒

年明けに誓いを立てて1ヶ月もたたないのに・・・、2週間の空白を
お許し下さい。 
タイトルどおり「底抜け」状態で大正の成金狂想曲を書き連ねている
が、この先、まだまだ続きます。それだけ、密度の濃い時代だったとい
うべきなのだろう。お陰で花筵王を超えて行きそうな雲行きである。

 開戦から4年が経過した。露西亜では革命が起き、ニコライが退位に
追い込まれた。戦いは終局に差し掛かりつつあった。
 銀次郎が精魂を傾けた青山学院の新校舎は、次第にその姿を現しつつ
あった。

 その一方で銀次郎は、自らの邸宅をどのように建てようか、構想を巡
らせていた。
 まず場所だ。須磨にはすでに内田が先頭を切ったかのように神戸の財
界人が屋敷を構え始めていた。市街地に近い布引には川崎造船所の川崎
家の邸宅があり、先代の正蔵から連綿と普請を重ねていた。すでに開け
た場所ではなく、できれば港が見える高台があれば言うことがないのだ
が・・・。
 そのとき人を介して、摩耶山下の青谷に銀次郎のうってつけの場所が
ある、という知らせが入った。
 
 ある日、銀次郎は青谷の高台に立った。茶畑や果樹の植わった一帯を
抜けると緩やかな斜面地の原っぱがあった。
 眼下には芽渟の海が広がり、遠く和泉や紀州まで見渡せた。
 近くには神戸高等商業学校や関西学院の校地があるが、まだまだ周囲は
開けては居ない。
 「よし、ここなら思いのままの普請が出来る。気に入った」。銀次郎の
決断は早かった。
 土地の次は、誰に頼むか、である。施工業者は、青山学院の工事も引き
受けている金田組にしようと考えていた。
 だが、金田組は、施工は優秀だったが、設計の人材は無かった。
 山下亀三郎は、会社に自前の建築部門を持っていて、お抱えの建築士に
図面を引かせていた。内田は神戸の設楽貞雄や、大阪の宗建築事務所に事
務所や邸宅の設計を任せていた。銀次郎自身も、辰野金吾に仕事を依頼し
ていたが、辰野先生は自身の建築家生活の最後を飾る議事堂の仕事に打ち
込んでいた。もとより、銀次郎としては洋風ではなく、和風の伝統的な邸
宅を建てたいと考えていた。辰野先生のところでは、もちろん和風住宅も
手がけてはいたが、銀次郎の求めるイメージには必ずしもそぐわない所が
あった。当時の和風邸宅といえば、大名屋敷然とした大仰な唐破風の車寄
せと入母屋屋根の御殿、というのが通り相場だった。
 銀次郎は、芳夫人の生まれた京都の、数奇屋風の佇まいを取り入れた屋
敷を求めていた。
 すると、金田組の主人・辰之助が、「今うちで神戸高等商業学校の新し
い研究所の仕事を頂いていますが、そこの設計をなすっている武田先生と
いう方がいらっしゃいますよ」という。
 聞けば、辰野先生の愛弟子の一人で、この春から名古屋高等工業学校の
教授に転任したが、それまでは京都高等工芸学校で教鞭をとっていたとい
う。「非常に絵筆が達者な方です」という。
 「そうか。お忙しい方のようだが、神戸に立ち寄られることがあれば、
お会いしたいと、伝えてくれぬか」。銀次郎は辰之助に伝言を託した。


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