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2008年9月29日(月曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(56)

カテゴリー: - dr-franky @ 01時48分00秒

 東京に入った滝川儀作、そして銀次郎達には、上海丸を始めとして
到着する救援船の物資の分配を行う、という新たな仕事が待っていた。
 震災でほとんど被害を受けなかった内幸町の日本興業銀行の一部屋を
銀次郎たちは借り受けた。計画・意匠を渡辺節、そして構造を内藤多仲
というコンビで手がけた第2作である。その第1作は神戸・海岸通の大
阪商船ビルなのだが、そんなことは今の銀次郎たちにはどうでも良い話
だった。
 部屋に篭って、入電してくる救援物資のリストをもとに、東京市や
神奈川県庁とも連絡を取り合いながら、儀作と銀次郎は額をつき合わせ
て、配分計画を立て、ついで港から物資の配給場所への運送の手配を整
える。そうした日々が結果として2ヶ月近く続くことになる。
 
 そんな仕事の手があいたある日、銀次郎は、思い立って青山の地を
訪ねた。すこしづつ掘っ立て小屋が建ちつつある青山の街角を銀次郎は
歩いた。ある意味、かつて自分が通学していた頃の風景に戻っているの
ことに、不思議な感覚を禁じえない銀次郎であった。
 
 銀次郎は校門の前に立った。
 勝田館は、一部の壁を残してすっかり瓦礫の山となっていた。他に
あったはずの校舎も大半は姿を消していた。

 こちらは屋根瓦がずれただけで残った学院長館に、高木院長を訪ねた。
 「これはこれは、勝田さん」失われた学園の復興に奔走している高木
院長だったが、突然の銀次郎の来訪に驚きつつも、席を薦めた。
 「高木院長、私は非常に申し訳のないことをしました。もう少し、設
計のときに地震への備えを指図しておけば、と悔やまれます。」
 高木院長は、「いいえ、あの揺れでは、こうなってしまったのもやむ
をえないと・・・」と当日の様子を伝えた。

 「学院の復興に何らかのお役に立ちたいのはやまやまですが、いまや
債権者に首根っこを押さえられている身、面目ない」。
 「いや、こうして立ち寄っていただいたことだけで、私たちにはもう」

 高木院長は、遠ざかる銀次郎の影が見えなくなるまで校門で見送った。
 
 宿舎への道すがら、銀次郎は思った。「形あるものもいつかは壊れる
ときも来る。儚いものじゃ」。そして、自分の会社のことも、時期が来
れば整理をしなくてはならないだろう、と覚悟を決めた。それに今住ん
でいる青谷の屋敷も、いつかは明け渡さなくてはならない時が来るとい
うことも。                  (この項 つづく)


2008年9月6日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(55)

カテゴリー: - dr-franky @ 09時00分00秒

 いくつかの川を渡り、鎮守の森に野宿して、ようやく石橋市長の一行は東
京市中に入った。だが、甚大な被害という点では、東京もさほど差がなかっ
た。
 とはいえ、市街地がことごとく焼け落ちた横浜とは対照的に、東京府庁の
あるの丸の内界隈は、被害が軽く済んだオフィスビルも多かった。鯨のよう
に巨大な東京駅もしっかり建っていた。

 対照的に、はす向かいの新築間もない丸の内ビルは、壁に亀裂が走ってい
て深手を負っているようだった。

 銀次郎は、「英和学校・・・、青山学院はどうなったかのう」と、心の片
隅で気にかけていた。
 銀次郎は、「青山あたりは、被害はどうのようなものですか」と、応対し
ている府庁の吏員の一人に尋ねてみた。
 「比較的山手ではありますが、揺れがかなり長く続いたので、火事も出て
いるようですが」。

 「やはり厳しいかも知れぬ」。銀次郎は心の中で、自分に言い聞かせる
ようにつぶやいた。

 銀次郎も、母校の被害が気がかりではあったが、公務での状況ということ
もあり、私的な単独行動をとることははばかられた。

 その、青山学院の、銀次郎が心血を注いだ勝田館は、丸の内の赤レンガ街
の町並みとは対照的に、完全に文字通り瓦礫の山と化し、一部の壁面が残る
だけという壊滅的な被害を受けていた。 
 煉瓦造で、大きな講堂を内包する勝田館は、今日の目から見れば、地震に
対しての考慮が十分なされた建物でなかったことは事実であろう。しかし、
竣工から5年余りで、勝田館は地上から姿を消すことになったのだった。
                         (この項つづく) 


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