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2007年4月26日(木曜日)

第一夜 「台北」定番レタス入りチャーハンを味わう

カテゴリー: - dr-franky @ 21時37分44秒

 ある日、私はナダク某所のアジトでnaddist氏から指令を受けた。

 「原田界隈の近代建築や町並みの見学会を行うことになった。ところで
今回の君への指令だが、町歩きのナビゲーターをやってもらう」。
 「今回は、どういった所を取り上げるのでしょう」。
 「ナダ駅舎を基点に、ブンカ軸をキーにコースを組む。今回は、
1箇所、建物内部の見学に協力してくださるオーナーさんが居られる。」
 「それは何処の方で」
 「旧近美の下の産婦人科のK先生の邸だ」
 「えっ、あのK先生の・・・」。

 そう、「原田のジェームス邸」が急に私に接近してきた。 
 内部見学の下打ち合わせのため、naddist氏の協力者ミスターMが、
既にK博士に渡りをつけているという。
 思わぬところから、私は「原田のジェームス邸」を訪問する機会
を得ることになった。
 晩夏の、ある土曜日の昼下がり、指定された時間に、久しぶりに
(なにしろ、いつの間にか私は就職を果たし、大震災も起きて数年
過ぎているのだから!)、私はK博士の邸を訪ねた。
 
 大きな重々しい門扉が開き、妙齢のK夫人が出迎えてくださった。

 外からしか見たことがなかったが、庭木も丁寧に手入れされ、鮮
やかな花々で彩られている。ここの一画だけは世界が違うように思
った。
 玄関のところには、こうした邸宅にはつきものの、デザイン上の
あそびというか、手洗い場風のしつらえがあり、ライオン君が取り
付いている。
 私は上のほうを見上げた。
 銀色のドーム屋根は相変わらずとってつけたような感じだが、
ファサードは一見すると昔と変わらないようにも思えた。
 玄関ドアは、喫茶店なんかについていそうな、格子状にガラスが
はまったタイプのものが入っている。これはオリジナルではないの
かもしれない。
 いよいよ、私は、応接間へ通された。  (この項つづく) 


2007年4月19日(木曜日)

第一夜 「バスストップ」に涙する

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 正金銀行の支援もあって、善治郎の会社は花筵の世界各地への
輸出を継続できた。
 善治郎は、明治43(1910)年から、神戸花筵同業組合の組合長、
神戸輸出協会の副会長という要職を、多忙な本業の合間を縫って
務めていた。
 長男の英太は、京都帝大を了えて、善治郎の右腕として、会社
を切り盛りするまでになっていた。
 年号が昭和へ変わった年、故郷・長野から元代議士の令嬢・婦
美子を英太は妻に迎えた。
 翌年には、初孫・善一郎が誕生した。

 しかし自ら乗り出し販路を開く、という善治郎のビジネススタ
イルは六十歳を超えても変わることはなかった。気付いてみると、
善治郎の査証は、多くの亜米利加の入国管理局の許可印で埋め尽
くされているという按配だった。
    
 母のすめは明治35(1902)年に七十五歳の生涯を全うし、兄の
善太郎も数年前、大正12(1923)年に七十歳で亡くなっていた。
「故郷へ一度は帰り墓参りをしなくてはならないな」。善治郎は
考えていた。
 
 日本の経済は、決して順調ではなかった。いや好材料はないに
等しかった。大蔵大臣の失言に端を発した中小銀行の取り付け騒
ぎに端を発し、第一次世界大戦後の反動を逆に拡大路線で乗り切
ろうとしていた神戸の総合商社・鈴木商店も、唯一の取引銀行に
して事実上のメインバンク・台湾銀行からの融資の停止で、グル
ープ全体が解体の危機に瀕するなど、恐慌の影が徐々に忍び寄る、
そんな時代であった。           (この項続く)
 


2007年4月12日(木曜日)

第一夜 K&Kコンビの「鳴き」にしびれる

カテゴリー: - dr-franky @ 00時22分30秒

 善治郎は、横浜正金銀行の本店に乗り込んだ。
 銀行側が為替取引を中絶するなら善治郎の会社は、潰れるのは
日の目を見るよりも明らか。しかしそのために、花筵輸出が絶え
ることは貴重な外貨獲得の手立てを失うことにつながり、日本の
国策にも反する・・・。山岡鉄舟の、剣の極意「無刀」ではない
が、ありていに善治郎は銀行の幹部に花筵輸出の重要性などを
懇々と説いた。
 後に正金銀行副頭取となる柏木秀茂らは、善治郎の会社の内容
を調査したうえで、事業継続の手立てを打ってくれた。こうした
こともあって、最大の危機を、善治郎の会社は、いや日本の花筵
業界はなんとか乗り越えることができたのであった。

ところで、大戦景気の頃から、磯上通の花筵検査所は、業務量
に比して施設が狭隘となっていた。こうしたことから検査所を移
転整備しようとの構想が関係機関の中で練られた。
 移転先は、産地からの鉄道の便が良く、なおかつ検査後の港へ
の搬出の便が良いことが求められた。神戸港に隣接した地域は、
既に人家が密集していたため、周辺にまで範囲を広げて適地探し
が進められた。最終的には貨物駅である東灘駅に程近い西灘村河
原の約五千坪の土地に、新検査所の用地としての白羽の矢が立て
られた。
 大正12(1923)年1月、新しい検査所が落成、業務を開始した。
石造風の二階建ての庁舎は建坪約二千五百坪の規模を誇った。 


2007年4月5日(木曜日)

第一夜 おばちゃんから差し入れの落花生が差し入れられる

カテゴリー: - dr-franky @ 00時15分00秒

 第一次世界大戦の景気は空前だった。勝田や山下、内田といった船成金を
はじめ、にわか成金が我が世の春を謳歌した。
 もちろん善治郎には、そこらの成金のような浮ついたところはなかったが、
やはり時流に乗って業績を伸ばしていった。善治郎の会社の主要な取引先で
ある亜米利加は当初は参戦せず、モンロー主義の下で中立の立場をとってい
たこともあって、取引には悪い影響はなかった。
 
 花隈の花柳街では、暗い足元を照らすのに百円札を燃やしている、などと
いう風刺絵も出た。
 川崎造船所の松方幸次郎など、「欧州の大戦は十年はつづく」と言って、
鼻息も荒く規格を統一した「ストックボート」の建造に血道をあげ、其の一
方で独逸のUボートの機密を狙ってヨーロッパへ渡り、カモフラージュもか
ねて名画を購入するようになっていた。

 もちろん、その一方では狂乱物価に苦しめられる庶民の姿があった。
 大正7(1918)年には、松方の盟友、金子直吉の率いる鈴木商店の東川崎
町の本店が、群集によって焼き打ちれる事件が起こった。内地の米を買い占
めている事実はないにもかかわらず、「鈴木はたいそう羽振りがええようや」
という評判だけで、買占めの元凶と槍玉に挙げられる。押し留めようのない
無数の衝動が引き起こした出来事だった。

 しかし好事魔多しとはよく言ったものである。
 その年の11月、独逸は連合国に降伏した。

 こうなれば世の中一転して「売り一色」である。
 輸出量は大幅に減少した。それは花筵も例外ではなかった。善治郎の会社
は百数十万ドルにも及ぶ滞貨を抱え、メーンバンクの横浜正金銀行も取引の
信用額を大幅に制限するほかなかった。

 善治郎は、人生最大の危機に直面した。     (この項目つづく)


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