善治郎は、横浜正金銀行の本店に乗り込んだ。
銀行側が為替取引を中絶するなら善治郎の会社は、潰れるのは
日の目を見るよりも明らか。しかしそのために、花筵輸出が絶え
ることは貴重な外貨獲得の手立てを失うことにつながり、日本の
国策にも反する・・・。山岡鉄舟の、剣の極意「無刀」ではない
が、ありていに善治郎は銀行の幹部に花筵輸出の重要性などを
懇々と説いた。
後に正金銀行副頭取となる柏木秀茂らは、善治郎の会社の内容
を調査したうえで、事業継続の手立てを打ってくれた。こうした
こともあって、最大の危機を、善治郎の会社は、いや日本の花筵
業界はなんとか乗り越えることができたのであった。
ところで、大戦景気の頃から、磯上通の花筵検査所は、業務量
に比して施設が狭隘となっていた。こうしたことから検査所を移
転整備しようとの構想が関係機関の中で練られた。
移転先は、産地からの鉄道の便が良く、なおかつ検査後の港へ
の搬出の便が良いことが求められた。神戸港に隣接した地域は、
既に人家が密集していたため、周辺にまで範囲を広げて適地探し
が進められた。最終的には貨物駅である東灘駅に程近い西灘村河
原の約五千坪の土地に、新検査所の用地としての白羽の矢が立て
られた。
大正12(1923)年1月、新しい検査所が落成、業務を開始した。
石造風の二階建ての庁舎は建坪約二千五百坪の規模を誇った。