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2007年1月25日(木曜日)

第一夜 番茶をすすりながら今夜の新家での品々を振返る

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

紐育での善治郎の新しい生活が始まった。

 森村組の新入りが必ず経験する商品係は、ビルの地階の倉庫が仕事場であったので、
誰彼となく「穴倉組」と呼ばれていた(当時の「穴倉組」の1週間の給料は7ドルだっ
たという)。
 当時の穴倉組は、義弼と、「哲学者」と呼ばれた「帰山」、田邊というせっかち屋と
いう個性派集団で、時には取っ組み合いの喧嘩もあったようだ。だが、今のイジメのよ
うな陰惨さはこれっぽちもなく、実にさばさばとして、再び仕事に戻っていった。

 ここ紐育では先輩格の義弼と、善治郎は「独逸人酒屋アパート、3階3室」の下宿で
珍妙な共同生活を送っていた。
 きちんと早起きする義弼に対して、信州育ちのおっとりした「善牛和尚」善治郎は朝
寝坊気味。カードゲームに目がなく、スモーカーの善治郎に、読書家の義弼と、何をす
るにも対照的な2人だが、冷たい麦酒と暖かいご馳走を愉しむ夕食が2人にとっての何
よりの共通したたのしみだったようだ。
 住み込み家政夫の経歴を活かし、料理係は善治郎、後片付けは義弼という役割分担を
していたつもりだったが、それも善治郎任せになりがちであった、と義弼は後に回想し
ている。

 そんな日々を送る善治郎のもとへ、ある日、神戸の港から一つの包みが送り届けられ
た。大きな嵩の割りに目方は知れている。普段扱っている瀬戸物や清水焼の陶磁器とは
対照的である(ちなみに陶磁器を多く取り扱った森村組は、名古屋で現在も盛業中の陶
磁器メーカー・ノリタケカンパニーリミテドの前身である日本陶器の基礎を作った、
「海の向こう」での立役者であった)。
 
 この見慣れぬ包みが、善治郎のその後の人生を大きく変えることになるのであるが、
今は誰もそのことを知る者はなかったのであった(この項つづく)。 


2007年1月18日(木曜日)

第一夜 新家を「けんさん焼き」で締める

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分53秒

 実は、明治二十二(一八九九)年、一人の青年が、善治郎を頼って桑港へ渡って来た。

 青年は義弼といい、なんと善治郎の親友・梅次郎の紹介状を携えていた。
 善治郎は、義弼に、自身の経験に照らして、桑港には同胞でも素性のよくない者もあり、なおかつ雇用面の待遇もよくないから、いっそのこと紐育へ行くよう助言した。
 義弼は、善治郎の助言に従い、大陸横断鉄道で紐育へ向かい、いろいろ苦労をしながらも、同地の日本の貿易会社・森村ブラザーズの支店で、地下倉庫の商品整理係という仕事になんとかありつくことが出来ていた。
 その義弼が、しきりに手紙を善治郎に遣して、紐育へ出てくるよう勧めていたのだ。

 こんどは善治郎が義弼を頼ってニューヨークへ向かう番となった。

 流石にこんどは徒歩で北米大陸横断というわけには行かなかった。幸い、其の当時の善治郎の蓄えは、亜米利加の鉄道運賃でも、そんなに堪えないほどにはなっていた。
 紐育に着いた善治郎は、ほどなく義弼と同じ、森村組の商品整理係の職を得ることが出来た。

 ここで森村組について触れておこう。
 森村組とは、第六代森村市左衛門らにより、明治九(一八七六)年に設立した貿易商社である。
 市左衛門(幼名・市太郎)は天保十(一八三九)年に江戸の馬具・袋物商の家に生まれた。安政大地震の火災で、京橋の店が全焼。十六歳の市太郎は人夫や露天商などで日銭を稼ぎながら家計を支え、店の再建を目指した。そんな市太郎の転機は、安政六(一八五九)年の横浜開港だった。市太郎は横浜で仕入れたラシャ・時計など舶来の品々を江戸で薄利で販売。やがて江戸の諸侯の屋敷から声がかかるようになり、その中で中津藩の福澤諭吉の存在を知る。
 しかし、市太郎のビジネスは、幕府崩壊でかげりが見える。多角経営で手を伸ばした製塩、養蚕、漁業がことごとく失敗。しかし、新政府に本業の馬具を納入できたことでなんとか窮地は逃れることが出来た。だが、役人に賂を渡す習慣に憤慨。御用役人の座を投げ出す。そして、慶応義塾で福澤の教えを受けた弟・豊と共に設立したのが森村組である。
 二十二歳の豊は福澤諭吉が引き合わせた仲間と共に、紐育へ旅立ち、当地で「日之出商会」を設立。横浜での取引で審査眼を鍛えた市太郎が選りすぐった蒔絵などの工芸品などを扱った。その二年後、明治十一(一八七八)年、豊は独立する形で「森村ブラザーズ」を設立した。
 
 善治郎達が入店したのは、森村ブラザーズが陶磁器を主力に扱っていた時期で、躍進期に向けて加速をつけている時期、といえた。


2007年1月11日(木曜日)

第一夜 六番目のだし巻と黒豚のカツレツに箸をつける

カテゴリー: - dr-franky @ 00時15分25秒

 建築夜話といいながら、このコーナー、なかなか直接意的に灘の話に向かないが、普段は通り過ぎてしまう街角の建物に隠れている人の歩みをじっくり辿ってみる夜長の話ということでお許しを願いたい。夜も深まる中、話は続いていく。

 紹介状一通すら持たない善治郎であったが、取りあえずは桑港から六十キロ離れた小さな町で、大工の家に住み込みの家政夫の仕事を得ることが出来た。
 善治郎は後に「北米で皿洗ひをやったそもそもの草分けは、前首相高橋さんだといふが、儂も皿洗いを卒業してきた譯だ。」と述懐している。

 ここでいう「前首相高橋さん」とは、昭和十一(一九三六)年の二・二六事件で青年将校団に暗殺された高橋是清のことである。
 高橋は、江戸で町絵師の子として生まれ、後に仙台藩士の養子となり、藩命を受けて幕府瓦解の直前の時期に亜米利加へ留学目的で渡った。しかし、知らないうちに奴隷契約書にサインをしたばかりに、牧童や下男などしながら各地を転々とし、1年余りして脱出するように日本の土を踏んだ。
 善治郎の言う「先駆け」とは、この悲惨な「留学時代」のことを指しているのだ。
 脱線するが、高橋の其の後を辿ると、元号が明治と変わった直後のことで、現地で実践で英語を身につけた高橋は、出来たばかりの開成学校の教師という職を得たものの、こんどは遊興が過ぎて失職。九州・唐津へ「都落ち」、酒をあおりながら当地の学校で教えた、という。その時に指導を受けていたのが、後に最初の日本人建築家の一人となる辰野金吾(東京帝国大学教授、日本銀行本店、東京駅を設計)であった。
 亜米利加で辛酸を舐めた若者は多かった。建築界では、後年、高橋の教え子・辰野と国会議事堂の設計の主導権争いで死闘を繰り広げることになる大蔵省の建築技術官僚・妻木頼黄(よりなか)も、旗本だった父が単身赴任先の長崎でコレラのために亡くなり、さらに幕府の瓦解と其の後の混乱・困窮の中、後を追うように母親もなくし、家屋敷を売り払って十五歳のとき、密航同然で亜米利加・紐育へ渡り、ボーイをしていたところ、仙台藩出身の紐育副領事・富田鉄之助(後の日銀総裁)に諭され、帰国した経歴を持つ。

 さて、住み込みで働く善治郎は働きに働いた。乳搾りもこなした。しかし雇い主は評価はするが、給金は上げては呉れなかった。使い走り、洗濯・・・雑用に追われるなかでさしのも善治郎も「なんでここまで来てこんな仕事を」と、将来の負けん気がむくむくと湧いてくるのを止められない、ということが幾度かあった。しかし、忍耐強さがそれを上回った。善治郎は歯を食いしばって働いた。
 石の上にも三年とはよく言ったものである。渡米で底を突いた蓄えは、かなり取り戻すことが出来ていた。善治郎は、はるか東方を見ていた。

 ある日、善治郎は雇い主のプラマーに切り出した。「お暇を頂きたいのです(もちろん英語で)」。

二十三歳の善治郎


2007年1月4日(木曜日)

第一夜 新家にてマスターと亜米利加映画談義に花を咲かす

カテゴリー: - dr-franky @ 00時45分55秒

 今で言うアルバイトを積み重ね、其の合間も縫って通った英学校で英会話もなんとか上達し、旅費五十ドルの工面もどうにかできた。
 場末の古着屋でコートから上着、ズボン、シャツを買い込み旅装を調えた善治郎は、横浜へ向けて出発した。もちろん歩いて。

 今ほど立派ではない横浜の港。しかし艀やランチやらで波止場は賑わっていた。
 そんな中、見送ろうという者もない、一人ぼっちの善治郎は、しかし決然として「シティオブシドニー号」の船上の人となった。時に善治郎二十四歳、明治十九(一八八六)年年明け早々のことだった。
 
 船が岸を離れて、浦賀水道から外洋へ出るころ、善治郎は船倉に近い「チャイニーズスティアレージ」三等船室のハンモックに潜り込んだ。船室といっても、貨客雑居の黴臭い物置然とした暗い穴倉である。しかし、快活な善治郎は他の船客や水夫達に話しかけ、覚えたてのジョークを飛ばして、次第に人気者になっていた。

 越後で見た海よりもさらに果てしない来る日も来る日も続く大海原。ないないづくしの船客・善治郎は、時折甲板出でてはすきっ腹に空気を一杯に吸い込む毎日だった。
 長い波路を辿った公開の末、「シティオブシドニー号」は桑港へ入港した。

 長渕剛の出だしの一節ではないけれど「ピイピイの」套中一文無の善治郎は、とにもかくにも「新世界」亜米利加にその最初の一歩を記したのであった。(この項つづく)


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