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2007年1月11日(木曜日)

第一夜 六番目のだし巻と黒豚のカツレツに箸をつける

カテゴリー: - dr-franky @ 00時15分25秒

 建築夜話といいながら、このコーナー、なかなか直接意的に灘の話に向かないが、普段は通り過ぎてしまう街角の建物に隠れている人の歩みをじっくり辿ってみる夜長の話ということでお許しを願いたい。夜も深まる中、話は続いていく。

 紹介状一通すら持たない善治郎であったが、取りあえずは桑港から六十キロ離れた小さな町で、大工の家に住み込みの家政夫の仕事を得ることが出来た。
 善治郎は後に「北米で皿洗ひをやったそもそもの草分けは、前首相高橋さんだといふが、儂も皿洗いを卒業してきた譯だ。」と述懐している。

 ここでいう「前首相高橋さん」とは、昭和十一(一九三六)年の二・二六事件で青年将校団に暗殺された高橋是清のことである。
 高橋は、江戸で町絵師の子として生まれ、後に仙台藩士の養子となり、藩命を受けて幕府瓦解の直前の時期に亜米利加へ留学目的で渡った。しかし、知らないうちに奴隷契約書にサインをしたばかりに、牧童や下男などしながら各地を転々とし、1年余りして脱出するように日本の土を踏んだ。
 善治郎の言う「先駆け」とは、この悲惨な「留学時代」のことを指しているのだ。
 脱線するが、高橋の其の後を辿ると、元号が明治と変わった直後のことで、現地で実践で英語を身につけた高橋は、出来たばかりの開成学校の教師という職を得たものの、こんどは遊興が過ぎて失職。九州・唐津へ「都落ち」、酒をあおりながら当地の学校で教えた、という。その時に指導を受けていたのが、後に最初の日本人建築家の一人となる辰野金吾(東京帝国大学教授、日本銀行本店、東京駅を設計)であった。
 亜米利加で辛酸を舐めた若者は多かった。建築界では、後年、高橋の教え子・辰野と国会議事堂の設計の主導権争いで死闘を繰り広げることになる大蔵省の建築技術官僚・妻木頼黄(よりなか)も、旗本だった父が単身赴任先の長崎でコレラのために亡くなり、さらに幕府の瓦解と其の後の混乱・困窮の中、後を追うように母親もなくし、家屋敷を売り払って十五歳のとき、密航同然で亜米利加・紐育へ渡り、ボーイをしていたところ、仙台藩出身の紐育副領事・富田鉄之助(後の日銀総裁)に諭され、帰国した経歴を持つ。

 さて、住み込みで働く善治郎は働きに働いた。乳搾りもこなした。しかし雇い主は評価はするが、給金は上げては呉れなかった。使い走り、洗濯・・・雑用に追われるなかでさしのも善治郎も「なんでここまで来てこんな仕事を」と、将来の負けん気がむくむくと湧いてくるのを止められない、ということが幾度かあった。しかし、忍耐強さがそれを上回った。善治郎は歯を食いしばって働いた。
 石の上にも三年とはよく言ったものである。渡米で底を突いた蓄えは、かなり取り戻すことが出来ていた。善治郎は、はるか東方を見ていた。

 ある日、善治郎は雇い主のプラマーに切り出した。「お暇を頂きたいのです(もちろん英語で)」。

二十三歳の善治郎


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