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2007年3月29日(木曜日)

第一夜 1曲目 「ムーンライトサーファー」でジャンプする

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

確定申告の期間はもう終わってしまったが、一部の方は良くご承知の
とおり、灘区泉通には、灘税務署が置かれている。

 以前は浅野ゆう子が母と2人で灘税務所へ確定申告、というのが季節
のニュースで定番になっていたと思う。最近は佐渡裕氏が登場してきて
もおかしくない、と思っているが実際はなかなか記事になったところを
見たことがない。今はみんなオンライン申告に移行をしてしまったのだ
ろうか。すこし寂しくはある。
 しかし、一般クミンにとっては唐突な感のある「ナダ」に税務署、な
のである。なぜ「御影」でなく「泉通」なのだろうか。

 ある日、私はクナイ某所のnaddist氏のアジトで、1冊の本を眺めて
いた。
 「皇太子殿下御結婚記念 西灘村史」というこの大部は、神戸市への
編入直前の大正15(1926)年、西灘村の歩みを当時の県議会議員・西岡
安左衛門が編んだものである。
  
 この時代のこの手の本は、冒頭に村内の官公署や名所旧跡の写真を
載せている。空襲で焼ける前の今のJR灘駅周辺の風景は、発見の連続
だった。戦前のパンダストリート。今やジャズコンサートが開かれるお
寺も、昔は大きな瓦屋根のトラッドな佇まいであったり・・・。
 そうした中に、見慣れない鉄筋コンクリート造のいかにも1930年代官
公庁系建築、といった風情の建物の写真が載っていた。
これは警察署かな、と思った私はキャプションの所に目をやった。
 そこには5文字の漢字がクレジットをされていた。

 「花筵検査所」、と書かれている。

 家に帰って、昭和7年の神戸市街地図を広げてみた。灘区のあたりを
見ていくと花筵検査所と書かれた一角が見つかった。それは、なんと今
の灘税務署の敷地にあたっていた。どうも花筵検査所の跡へ、税務署が
設置されたという構図が見えてくる。 

 私にとっては「花筵」という言葉が新鮮だった。
 いったい「花筵」とは何なのか。またその検査所とは・・・。
 しかし、その建物と、原田通の謎の館とのつながりを予想すらしてい
ない私だった。               (この項つづく)

新しい花筵検査所


2007年3月22日(木曜日)

第一夜 「高雄」の「お決まり立位置」に立つ

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 明治38(1905)年6月、待望の花筵検査所が神戸市磯上通で業務を開始
した。
 ここに、花筵の輸出前のチェックは、各産地の花筵同業組合による自主的な
検査から、国による直轄検査へ移行した。
 それまでばらばらで行われていた検査が、統一された基準で行われるように
なったことで、次第に日本製花筵の品質はバイヤーの間で再評価されるように
なり、最終的に倉庫で滞っていた花筵の在庫の山も次第に解消して行った。

 さて、この時期、善治郎は神戸に居を構えた。中国地方の産地に近く、また
商品を積み出す港もある神戸の地は、善治郎にとって日本での拠点を置くのに
相応しい土地と写ったに違いない。

 二宮の近く、今の布引町に構えた屋敷は、煉瓦壁を周囲にめぐらし木造2階
建下見板貼の、今で言えば異人館風の洋館と入母屋屋根の主屋、商品を納める
蔵が軒を連ねる大きなものであったことが今日伝わる写真から窺がわれる。
相変わらず亜米利加と神戸とを年に2往復はする善治郎の留守は、善治郎の
友人で、桑港の牧師・服部綾雄の妹である糸子夫人が守った。

 もちろん順風満帆な日ばかりではなかった。花筵の売れ行きが伸びれば、一
方で絨毯の需要がへこむ。当然、亜米利加国内の絨毯織物業者が、政府に花筵
の大幅な関税引き上げを強硬に迫り、これを認めさせたのだ。
 この知らせを聞いた日本の花筵業界人の多くは、花筵輸出の将来を憂い、減
産を決め、それが広がっていくという状況が各産地で広がろうとしていた。
 だが、善治郎は泰然と構えていた。大幅な関税引き上げでも、花筵のコスト
パフォーマンスの優位はまだ保たれていたし、住宅ラッシュの西海岸を中心に
根強い花筵の需要は細ることはない、と善治郎は産地の代表者に説いて廻り、
事実、事態は善治郎の見通しどおりに展開し、ついには花筵の関税引き下げを
亜米利加の実需者が求めるという事態にまで至った。

 景気の浮き沈みはあったが、日露、そして第一次世界大戦の勃発で、善治郎
のビジネスは全力疾走を始めた。この時期、三井物産を凌駕した神戸の総合商
社である鈴木商店の番頭・金子直吉は「めくら滅法に突進じゃ」と叫んだとか。
いや鈴木だけでなく、善治郎も含めた貿易商は突っ走った。(この項つづく)


2007年3月15日(木曜日)

第一夜  naddist氏の熱演に耳を傾ける

カテゴリー: - dr-franky @ 20時51分20秒

 善治郎のたゆまない努力がようやく実りかけたころ、今一つの問題が起き
ていた。
 明治も半ばを過ぎた頃から、日本産の花筵に対する一定の評価が出来ると、
一部の産地で優良品に粗悪品を混ぜて出荷したり、発注者のオーダーを無視
して出荷する不心得な動きが出てきたのだった。
 これが結果的に日本製花筵の評判を落とすことになり、紐育港の上屋に
一時期数十万余りの日本製花筵の滞貨がひしめくこととなった。
 善治郎は、備前、備中、備後の各産地を巡り、出荷組合の役員と膝を詰め
て交渉し、ある時は県庁の商工関係の役人達とも懇談を重ね、生産者の素質
向上に努めた。

 善治郎が繰り返し説いたのは「貿易に必要な第一は信用、信頼である」と
いうことだった。初めて紐育に着いた荷を引き取ったときからの苦しい日々
を過ごしてきた善治郎の言葉の重みは次第に産地の出荷組合の役員や、県庁
の幹部に伝わるようになっていった。

 また善治郎は、花筵の検査所を設置することも提唱した。農商務省へもた
びたび陳情に行った。いまや主要な貿易商品となった花筵の国際信用力の向
上のためには、不可欠の施設であることを説いてまわった善治郎の苦労がよ
うやく報われる時が来ようとしていたのだった。             
(この項つづく)                     


2007年3月8日(木曜日)

第一夜 「高雄」の間にて改めて「缶ラガー」で乾杯す

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 善治郎に救いの手を差し伸べた人物とは、森村組時代の上役、村井保固である。

 ある日、村井から善治郎に「一度会わないか」と面談の申し入れがあった。
 約束の刻限、場所に出向いた善治郎に、村井は「独立独歩で苦労しながら花筵で
頑張っているそうだな」とねぎらいの言葉をかけた。

 村井は善治郎が置かれている境遇をよく知っていた。早いもので善治郎が森村組
を離れて二年余の歳月が流れていた。穴倉組の時から、他者にはない善治郎の豪胆
さを、村井は評価していた。

 村井は、善治郎に資本の融通を申し出た。「私は」、村井は続けた「森村組は今
こそ君と協力するべき潮時に来ている、と考えている。」。
 「有り難う御座います」。善治郎は、しかし首を横に振った。「私はひとり立ち
を決めてここまでやってきました。村井様の、その尊いお気持ちだけで今の私には
充分です」。
村井は言葉を重ねた。「善治郎君、いいかね。これは援助ではない。パートナーへ
の協力と受け取って欲しい。君の力量と性分を思い存分発揮してもらいたいと思って
いるのだ」。
これ以上の言葉は善治郎には不要であった。ここに善治郎と森村組との間で花筵取
引について紳士協定が成立した。

森村組からの資金的な協力が得られたことで、信用力が増した善治郎の事業も漸く
軌道に乗るめどが立つようになった。もちろん、一人何役というスタントを善治郎は
演じ続けなくてはならないことは変わらなかったが。
 ただ、大きな変化があった。善治郎は日本へ帰朝するようになった。

 人任せにしていた商品調達を、善治郎は魚の行商の時の経験から直営で行うことに
決めたのだ。
 自分自身が集めてまわった取引先からの注文を元に、日本へ戻って中国地方の花筵
の産地を巡って商品を買い付けては、神戸港から積み出し、其の荷物の載った貨客船
に乗り込んで亜米利加へ戻り、通関手続きを済ませて相手方に手渡す、ということを
年二回はやった。徐々に産地側も善治郎に信頼を寄せるようになってきた。
                             (この項目つづく) 


2007年3月1日(木曜日)

第1夜 「台北」のフロントで大将とおばちゃんに挨拶する

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

「なんてことだ」。善治郎は絶句した。

 倉庫には、日本からの花筵がたしかに届いてはいた。しかし、善治郎が発注した
数量にははるかに満たない、10分の1の商品しか届いていなかった。しかも、梱包を
解いて中身を見ると、善治郎の注文とはまったく異なるデザインの柄だった。

この頃、花筵は輸出額を伸ばしている時期であった。日本の産地では欧米各地から
の注文に追われる状況であった。善治郎が注文を出した日本の貿易商も、取引実績
のない一介の若者より、すでに取引のある他業者を優先して、そのしわ寄せが善治郎
に集まって悪い結果をもたらした、という所であった。

 善治郎は、注文主を回って、違約を詫びてまわった。相手からの詰問に平身低頭し
ながら、しかし善治郎の心の中には「今に見て居れ」という負けじ魂がさらに燃え盛る
ようになっていたのだった。

 渡米して一番の窮地に陥った善治郎だったが、しかし、森村やかつての仲間に頼ろう
とはしなかった。彼は西海岸の住み込み家政夫の時の辛酸の日々に固めた「独立独歩」
の精神を今こそ貫かなければ、明日はない、と自分に言い聞かせ、じっと耐える日々を
積み重ねていた。
 後年著された善治郎の伝記にはイギリスの評論家トーマス・カーライル(1795〜
1881)の言葉を引用して
「汝自身不動の一點に立つべし、然らば偉大なる友は、求めざるに汝に来たらん」
と善治郎の境遇を記している。
この言葉どおり、善治郎の前に救いの手を差し出す者が現れた。(この項続く)


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