米騒動が起こっても、大方の世間の見方は、「大戦、終結近し」であった。
しかし、金子直吉は、本店焼き討ちの際の自分への懸賞金など「ヘッチャラ」
とどこぞの「孫ゴクウ」ばりに、相も変わらずの大風呂敷を広げていた。
それに影響を受けていたのか、我らが銀次郎、大阪鉄工所に、「おい、まだ
まだ船が必要だ」と、新造船4隻を発注した。
「さすがは勝田はん、やることがちゃうわい」などと、世間ははやし立て
ていたが、裏では「何を考えてるのや」、というのが、一致した見方だった。
船価は、天井値に張り付いたまま。しかし、もう上がる要素はない。
内田信也が心配顔で、「勝田さん、何を考えてはりますのや」と居留地の事
務所へやってきた。
「いや何、金子さんや松方さんの話では、まだまだ欧州方面は手堅いみたい
だから・・・。それに、まだまだ日本の海運界は、船が足らんよ」と、勝田は
持論をぶった。
抜け目のない船主達は、既に持ち船の整理に取り掛かっていた。ほかならぬ
内田自身も、である。その中での、勝田の新造船発注は、際立っていた。今流
に言えば「KY」呼ばわりされていてもおかしくない情勢である。
そして 月、案の定、欧州は停戦協議に入った。
今度は山下亀三郎が、大阪鉄工所に「今だったら、勝田の言い値の七掛けでも
お宅にとってはいい話じゃないか」と、暗に値引きの働きかけを始めた。
それをどこで知ったのか、銀次郎は「男は一旦した約束は守るものだ。当初の
契約どおり、ことを進めて欲しい」と大阪鉄工所に伝えたのだ。
これには、旧知の友も、二の句を継ぐことは出来なかった。
大正7年11月、銀次郎が情熱を傾けた東京・青山学院の「勝田館」が、その
全容を現した。
その頃には、停戦協議は成立して、欧州に久方ぶりの和平が訪れていた。
(この項、つづく)



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Trackback by ブルガリアヨーグルト ギリシャ — 2019年4月2日(火曜日) @ 08時26分41秒