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2007年7月26日(木曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(その6)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時34分02秒

 南青山といえば、いまや東京のど真ん中、ホンダの本社まである
土地柄だが、明治半ばの頃は、南豊島郡渋谷村といい、東京市街近
郊の武蔵野の面影がまだ残る一画だった。
 その渋谷村の辻を、銀次郎が歩いている。北国行きの列車で出会
った本多の言葉が頭から離れなかった銀次郎は、本多から渡された
書付けにある住所を目指していたのだ。
 銀次郎は、目指す南青山7丁目の一画にたどり着いた。
 広いグランドの隅っこに、校舎が2棟、1棟。校門には「東京英
和学校」と墨書された木製の看板が掛っていた。
 仕舞屋に入っている私塾的な形態を予想していた銀次郎は、「ほ
お」と感心したように、しばし校門の前にたたずんだ。
 
 学校の事務方を訪ねて、書付けも見せながら、銀次郎は東京英和
学校で学びたい、と申し出た。
 銀次郎も進学のために故郷を出たわけではなく、入学金、寄宿舎
の入居費、月謝などの経費が充分にあったわけではなかったが、学
校の職員達が、アルバイト先を斡旋してくれたのだろう。銀次郎は
無事、東京英和学校に入学することが決まった。
 一旗挙げて、の野心は、しばらく心の片隅に仕舞っておく覚悟を
銀次郎は決めたのだった。        (この項、つづく)


2007年7月19日(木曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(その5)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 後にあまれた伝記によると、銀次郎は、その男とであった時、なけなし
の金を懐に、北国へ向かう列車の車上にあった、という。
 灘の誇るブルースシンガー。朱里エイコの歌の頃と違って、この頃の
北国行きの列車には、向こう見ずな若者達が一攫千金を狙って新天地
への片道切符を握り締めて、木製の直角座席に体を固くしていたのだっ
た。銀次郎よりひと回り年長の赤尾善治郎は、亜米利加大陸だったが、
銀次郎の頃は北海道も、そうした若者からは新天地として見られていた。
銀次郎も、どうも北海道で一旗を挙げてやろうという野心をたぎらせて
いたらしい。

 どこの駅だったか、一人の初老の男が、銀次郎のはす向かいに座った。
 銀次郎の訛りから余所者と見たのか、初老の男は銀次郎に話しかけて
きた。「そなた、まだまだお若いようだが、何処へ行こうとしている」。銀次
郎は、「北海道へ出ようと思っています」。と答えた。
 銀次郎から、松山を出るまでのいきさつを一通り聞いた男は、「そうか、
たしかに北海道は、これから伸びてくる土地だろう。」と北海道が有望な
地であることに同意を示した。
 「しかし」、と男は言葉を継いだ。「君はまだ若すぎる。新天地に赴いた
からといって、直ぐに良い働き口が見つかるわけではない」。
 銀次郎が反論しようとするのを、男は遮るように続けた。「いいかね。事
業を興すのに必要なものは、情熱以外にもたくさんある。
 君は中等学校を卒業したばかりだそうだが、これからの時代、事業を興
して成功していくには、たとえば外国との付き合いが必要になってくる。
言葉や相手の国の事情や法律にも通じていなくてはいけない。今の君に
そうした知識は身についているかね」。
 銀次郎は黙り込むしかなかった。「事業の知識をつかむのに、実業の
世界に飛び込むというのは一見正しいようにも思えるが、それにしても、
君のたくらみは余りにも無鉄砲極まりない。今のまま北海道へ出ても、
君はたいした事のない仕事で、人に使われるだけで一生を終わってしまう
だろうよ。」というと、男は懐から書付けを取り出した。
 男は「私は本多といって、東京で英学校の院長をしている。」と自己紹介
した。「勝田君、このまま北海道を目指すもよし。もし気持ちが動いたな
ら、私の学校を覗いてみてはどうか。これを持って訪ねてもらえれば、悪
いようにはしない。学校に話しを通しておくから」と、書付けを銀次郎に
手渡すと、本多は、次の停車駅で列車を降りた。

 「けっ」。自分の夢に水をさすような説教をする本多に、血気はやる銀
次郎は、いい気持ちがしなかった。
 だが、通り一遍ではない本多の話しぶりに、銀次郎は無視しきれない何
かを感じ取っていた。銀次郎は本多が手渡した書付けを、しっかりと荷物
を詰めた風呂敷の奥に大事にしまいこんだのだった。 (この項、続く)

 
 


2007年7月12日(木曜日)

第二夜 底抜け!豪快!!船成金の館(その4)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 所で、大正初期の神戸の三大船成金は、どのような学歴を経てきたのか。
 内田信也は、麻布中学校から東京高等商業学校に進んだ。全国初の高等
商業学校であり、現在の一橋大学の前身であることは既に述べた。
 高等商業学校といっても、今日の我々にはどの程度のレベルか実感が湧
かない。
 こんなエピソードがある。学校は違うが、神戸高等商業学校(現神戸大学
の前身、現在の神戸市立葺合高校、同筒井台中学校、同上筒井小学校の
敷地にあった)が大正後期に大学令改正を契機とした大学昇格運動を展開
していた時、川崎造船所(現川崎重工業グループの川崎造船)社長の松方
幸次郎が、「高等商業学校の現状でも充分優秀な人材を輩出している。
大学に昇格しなくても充分やっていける」という趣旨のコメントを残している。
あるいは、鈴木商店で金子直吉の右腕としてロンドンで活躍し、後に総合商
社・日商を興す高畑誠一には、神戸高等商業学校を卒業するにあたり大学
進学の進路を希望したところ、同校の校長・水島銕也が、「大学へ行っても
学べることは知れている。実業の世界に飛び込んだらどうか」と諭して、鈴
木商店に送り込んだ、という逸話が残されている。
 この2つのエピソードからは、明治の高等商業学校のレベルの高さが窺が
われる。内田はそうした意味で「エリート」であった。
 一方の「ドロ亀」こと、山下亀三郎は、全盛期は「無学」を装っていたが、南
伊中学校を中退して故郷を出奔した後、京都で同志社にも関与した山本覚
馬の私塾に通い、東京に出てからも法律学者の穂積陳重が教壇に立つ明治
法律学校(現中央大学)に入学して勉学に励んだ、というエピソードを持つ。
 ビジネスには、やはり「知識」はある程度必要であることを2人とも自覚
していたようだ。

 では、松山を旅立った銀次郎は、どうであったか。
 松山中学校を終えていた当時の銀次郎にしてみれば、勉学など眼中には
無かったかもしれない。故郷を後にした銀次郎の眼差しは、はるか北の空
を見つめていた・・・。          (この項つづく) 


2007年7月5日(木曜日)

第二夜 底抜け!豪快!!船成金の館(その3)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 勝田銀次郎は、明治6(1873)年10月1日、伊予・松山
城下、唐人町に勝田林次郎とムメの長男として生を受けた。
唐人町の銀次郎の生家は、今の松山市大街道一丁目三の三、
大街道交番の西側、愛媛銀行の道を挟んで真向かいの位置
にあたる、という。
 松山でも随一の商人町・唐人町にあって、林次郎は米穀
商を営んでいた。大店とまではいかなくとも、比較的裕福
であったといわれている。
 銀次郎は、小学校を卒業後、旧制松山中学校に進学した。
勉学に励む傍ら、家業も手伝っていたと伝えられている。
 信州の赤尾善治郎もそうであったが、この時代は風雲の
志を抱く青年は、いざ花の都へ、新天地へとの思いを抱く
青年が多かった。
 銀次郎も、松山城下にあって、そうした時代の空気を痛
いほど感じ取っていたことは想像に難しくない。

 明治23(1890)年、銀次郎一七歳の時、父・林次郎が病
に倒れ、帰らぬ人となった。そうした厳しい状況ではあっ
たが、翌24(1891)年、銀次郎は松山中学校を卒業した。

 赤尾善治郎もそうであったように、銀次郎も父の死を機
に自分の将来を自らの手で切り開きたいという願望を押さ
えられなくなった。
 彼は、郷里の松山を出奔した。(この項つづく)


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