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2007年2月22日(木曜日)

第一夜 台北ビルの「ゆうこ」の前を行く

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 善治郎は手始めに、紐育市内のとあるビルの1室にあるデスクと椅子を借り
受ける契約を取り付けた。数フィート四方だが、まぎれもない善治郎の「根城」
である。

 善治郎は森村時代の蓄えの一部を原資に、神戸の藤田松太郎からの現品
見本を元に、ナフキン二万枚に花筵売り出しの広告を製作し、今で言えば
ダイレクトメールよろしく方々へ配布した。

 しかし、ダイレクトメールを見ただけで連絡するようなお人よしは居ない。
当然のことながら、ナフキン広告の反応はまったくなかった。
 善治郎は、安易な自分の姿勢を戒め、こんどはセールス行脚に打って出た。
 怪しげな英語を操りながら、家から家を訪ね歩くうち、善治郎は何件かの注文
をもらえるようになり、次第に数万ドル単位の、まとまった注文も取れるように
なってきた。

 しかし、飛行機貨物が当たり前の現代とは異なり、この頃は船便がすべて。
 注文して現品が届くまでゆうに半年はかかるから、その間の生活のやりくりは、
現代の貧乏学生もかくやという有様であった。
 朝は1杯のスープ、1日中セールスで歩き回って、晩飯はパン一切れ。それでも、
善治郎は「いまに見て居れ」と自らを鼓舞して耐えしのぎながら、鶴首で商品の
到着を待ちわびていた。
 
 やがて、神戸から注文の花筵が届いた、という連絡が通関業者から届いた。
 一目散に、善治郎は港の倉庫へ急いだ。「ようし。これで、やっと一息つける
ぞ」。
 通関手続きの終わった商品がある倉庫へついた。
 善治郎は、倉庫の中に通された。しかし次の瞬間、善治郎の顔は曇った。
                             (この項つづく)


2007年2月15日(木曜日)

第一夜 台北ビルの前に立つ

カテゴリー: - dr-franky @ 00時54分47秒

 ある夜、善治郎は台所で夕飯の洗い物をしながら、月明かりのテラス
で物思いにふける義弼に、自分の温めている花筵の取引の構想を打ち明
けた。

「なあ、義弼よ。花筵の利点は廉価だけではない。絨毯は汚れが食い
込んで掃除するにも一苦労するが、花筵なら箒で掃けば綺麗になるし、
泥が付いたって布巾で拭いてやれば事足りる。
 それに、夏の汗が滴り落ちる時に分厚い絨毯をみたらぞっとするが、
筵は涼しげだ。おれに言わせりゃ、こりゃ絶対に受けるよ」。
 義弼は「またいつもの思いつきか」という気持ちになりかけたが
一方で、こんなに熱っぽく語る善治郎を見るのも久しぶりだ、とも思っ
た。そして、「ここまで考えているなら、善治郎は後へは引かないだろ
う」と、特に善治郎の考えを否定するような物言いはしなかった。

 それからしばらくして、善治郎は、森村組紐育支店の支配人である森
村豊に、したためた辞表を差し出した。もちろん、花筵の構想について
の考えも記した。
 豊はその場では、「とりあえず受け取るが、扱いは考えさせて欲しい」
とだけ善治郎に言った。

 またしばらく経ったある日、善治郎は、豊から支配人室へ来るよう言
われた。
 善治郎は、豊と向き合って座った。
 豊は言った。「善治郎君、君の構想は着眼はいい。しかし、貿易業を
起こすには、資金と経験が必要だ。しかし、幾ら花筵が安価だからといっ
てだ、今の君には資金の手立てはないし、だいいち花筵を扱った事だって
ない。君が自分の考えを実行に移すのは、私は反対だ。」
 善治郎にしても、豊の的を得た指摘にはぐうの音も出なかった。しかし
善治郎は感じていた。動物的な商売人としての勘が、花筵に勝算あり、と
善治郎に告げていた。善治郎の意思は揺るがなかった。
 こうなると、今度は豊のほうが、善治郎の頑固さに音を上げる番だった。
「そこまで決心が固いのなら仕方がない。しかし」豊は続けた。「もし成
算の見通しが立たない時は、直ちに森村へ戻って来い」。
 豊は、善治郎の人柄を買っていた。それだけに、無謀ともいえる自らの
賭けで、将来の可能性を善治郎が閉ざしてしまうことを恐れていたのだ。

 とにかく、善治郎は次なる新たな一歩を踏み出そうとしていた。(つづく)


2007年2月8日(木曜日)

第一夜 naddist氏一行と合流してKTV台北へ向かう

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 日清戦争前夜の日本で、貿易の主翼を担っていたのは居留地の欧米人と中国の商人で
あった(そうした意味で早くから亜米利加へ打って出た森村は得意な存在といえよう)。

 ところが、その実態といえば、マッチを例にとると、ある商売人がマッチそのものを安く日本
人の製造業者から買い叩いて仕入れ、それを、他社の製品のパッケージを適当にコピー
して作らせた外箱に詰めて、ベトナムあたりで売りさばく、といったことが平然と行われていた
ようだ(ある種の商売人のやり方は100年以上の時空を経てものさばっているのだと考えると
腹立たしい部分もある)。
 こうした粗製濫造が続けば、日本製品に対するマーケットでの評価は、当然の事ながら低い
ものにとどまざるを得ず、したがって国内産地はこうした悪徳商人の搾取と模倣に泣かされる、
という構図がいつの間にか出来上がっていた。
 花筵も若干状況は異なるが、安く買い叩いて商館へ横流し、という図式は大同小異であった
から、製造現場の中国地方の村々では商品の評価を上げようにも、そのための消費者の動向
がまったく伝わらない、という盲目取引を強いられていたのであった。

 だが、紐育の森村組の「穴倉」にいる善治郎に、そうした図式はまだ見えてはいない。
 
 神戸から届いた花筵を前に、善治郎は考えていた。

 欧米人が好んで用いる室内装飾のカーペットは丈夫なゆえに、すこぶる高価で、一旦買って
しまうと買い替えはおいそれとはできない。しかし耐久に劣る花筵は、カーペットに比べれば
安価であるから、消費者のトレンドを見てデザインを変えていけば、需要を掘り起していくことは
できるのではないか。
 
 「それに」、善治郎はわが身のありようにも目を向けていた。
 一旗あげようとやってきた亜米利加での暮らしも幾年月、いつまでも人に使われているだ
けでは成功はおぼつかない。このまま森村組にいても、先は知れている。
 ここらでひとり立ちを考えてみようじゃないか。持ち前の負けん気、旺盛な独立心を開放す
る時はもうすぐだ、そう善治郎は考えるようになっていった。                       (この項目つづく)


2007年2月1日(木曜日)

第一夜 灘中央筋でnaddist氏一行と相まみえる

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 「おい、善牛和尚よ、その包みは一体何だい」、義弼が声をかけた。
 「ああこれか。花筵(はなむしろ)だよ」と善治郎は返答した。

 現代の私達は、「花筵」と聞いても、即座に具体的なイメージを描けないだろう。
 しかし、戦前においては、一時期神戸港の輸出商品の上位を占めたこともあるヒット
商品だった。

 花筵の歴史は、赤松啓介の調査によれば紹介すれば、以下のようだ。

 もともと日本には、い草を編んだ敷物として筵があったが、これに模様を織り込んだ
ものは中国から日本に元禄の頃にもたらされ、上方あたりで模造する者が居たという。
ペリーが来航した時、亜米利加へ持ち帰った品々の中に、この上方で作られていた模様
を織り込んだ「花筵」が含まれていたといい、開港後の早い時期から海外へ輸出されて
いたという。

 明治九(一八七六)年頃、当時の岡山県令(現在の県知事に相当)高崎五六が、入手
した印度セイロン産の藺(い)筵のコピー模造)を奨励したのを受けて磯崎眠亀が創意
工夫して改良花筵を開発。これを開港場神戸の貿易業者へ眠亀が持ち込みセールスし
た。その結果、神戸元町の商人・浜田某が興味を示し欧米へ見本を送り込んだところが
反応がよく、明治十四(一八八一)年に英吉利からまとまった注文が入るようになり、
順次販路が拡大した。善治郎が亜米利加へ渡った直後の明治二十年には輸出額が時価三
万三千円になっていた、という。

 この花筵は、その後広島など中国地方の農村部の内職として広がっていった。その海
外輸出に拍車をかけたのは、明治二十一年十一月に兵庫〜明石間に開通した山陽鉄道
(現JR山陽本線)の延伸だった。大量輸送が可能な鉄道によって、中国地方各地に広
がった産地から送り出される花筵が神戸の地へもたらされ、神戸港から欧米各地へ送り
出されていた。

 善治郎が受け取ったのは、そうして送り出された中国地方の産地からのサンプル品だ
ったようだ。

 花筵は、同じ室内装飾品の敷物であるカーペットと比べると、耐久性は落ちるものの
図柄が豊富で、かつ安価ということもあり、手軽に模様替えが可能なことが受けて、欧
米での需要に繋がっていた。

 しかし、この花筵の「安価」という特徴が、黎明期のわが国の輸出商品共通の問題と
密接な関係にあるのもまた事実であった。            (この項続く)


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