「おい、善牛和尚よ、その包みは一体何だい」、義弼が声をかけた。
「ああこれか。花筵(はなむしろ)だよ」と善治郎は返答した。
現代の私達は、「花筵」と聞いても、即座に具体的なイメージを描けないだろう。
しかし、戦前においては、一時期神戸港の輸出商品の上位を占めたこともあるヒット
商品だった。
花筵の歴史は、赤松啓介の調査によれば紹介すれば、以下のようだ。
もともと日本には、い草を編んだ敷物として筵があったが、これに模様を織り込んだ
ものは中国から日本に元禄の頃にもたらされ、上方あたりで模造する者が居たという。
ペリーが来航した時、亜米利加へ持ち帰った品々の中に、この上方で作られていた模様
を織り込んだ「花筵」が含まれていたといい、開港後の早い時期から海外へ輸出されて
いたという。
明治九(一八七六)年頃、当時の岡山県令(現在の県知事に相当)高崎五六が、入手
した印度セイロン産の藺(い)筵のコピー模造)を奨励したのを受けて磯崎眠亀が創意
工夫して改良花筵を開発。これを開港場神戸の貿易業者へ眠亀が持ち込みセールスし
た。その結果、神戸元町の商人・浜田某が興味を示し欧米へ見本を送り込んだところが
反応がよく、明治十四(一八八一)年に英吉利からまとまった注文が入るようになり、
順次販路が拡大した。善治郎が亜米利加へ渡った直後の明治二十年には輸出額が時価三
万三千円になっていた、という。
この花筵は、その後広島など中国地方の農村部の内職として広がっていった。その海
外輸出に拍車をかけたのは、明治二十一年十一月に兵庫〜明石間に開通した山陽鉄道
(現JR山陽本線)の延伸だった。大量輸送が可能な鉄道によって、中国地方各地に広
がった産地から送り出される花筵が神戸の地へもたらされ、神戸港から欧米各地へ送り
出されていた。
善治郎が受け取ったのは、そうして送り出された中国地方の産地からのサンプル品だ
ったようだ。
花筵は、同じ室内装飾品の敷物であるカーペットと比べると、耐久性は落ちるものの
図柄が豊富で、かつ安価ということもあり、手軽に模様替えが可能なことが受けて、欧
米での需要に繋がっていた。
しかし、この花筵の「安価」という特徴が、黎明期のわが国の輸出商品共通の問題と
密接な関係にあるのもまた事実であった。 (この項続く)


