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2008年1月19日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(29)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分25秒

 ある日、銀次郎は新築なったばかりの須磨離宮前の内田信也の屋敷に
招かれた。
 今は住宅が建てこんでいる離宮前・桜木町一帯も、この時代は離宮道
が出来て間がない時期であり、今の山陽電鉄の周囲にある西国街道沿い
の人家がある辺りから上は、やはり真新しい武庫離宮を除くと、和風の
住宅が2、3軒ある程度に過ぎない「新開地」であった。
 
 道表から見ると、二階建ての大きな洋館造りが見えるだけだったが、
洋館の近くまで来ると、普請が続いている様子である。まだ何かを建て
るつもりであるらしい。

 「よくいらっしゃいました」。内田が迎えた。
 「随分と大きな地所ですなぁ」。銀次郎が感心した面持ちで言うと、
「この洋館は、応接所も兼ねて作りました。今、南側で和風の御殿
を建てるための造作をしているのです。西洋式もいいですが、やはり
畳が恋しくなりますから」、と内田は笑った。
 「御殿とあわせて庭造りも進めていくつもりです」。御殿と庭造り
をするなら、数千坪はくだらない広大な地所も納得できる。
  
 西洋館は、銀次郎が今まで神戸で入ったことのある洋館作りの屋敷
とは異なる感覚の建物であった。英吉利風であっても、典雅な趣のあ
る空間が広がっていた。聞けば宗兵蔵という大阪の藤田家の「御用」
建築士で、辰野先生の弟子の一人だという。

 山下亀三郎も、ここから少し西に行った八本松の高台に連なる斜面
地に、接待所を最近になって建てた。八本松には、大阪の藤田家が豪
奢な入母屋御殿を建てていた。

 事務所に屋敷、沸いてくるように入ってくる金を山下も内田も気前
良く普請道楽に使っている。

 青山学院に新校舎の寄贈を約束した銀次郎、「次はそろそろ家の普
請に取り掛かる時期かな」と思いながらも、「しかし、わしら夫婦に
は後を継ぐ子供がない。いっそ建てるなら、わしらが亡くなっても生
かされるような建物にしたいものだ」、と更に思索を巡らすのであっ
た。                    (この項つづく)


2008年1月12日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(28)

カテゴリー: - dr-franky @ 19時48分38秒

 欧州戦線は、連合国軍が劣勢に立たされる時期もあった。
 土耳古への英吉利軍の進撃も名将ケマルの指揮する土耳古軍によって阻
まれていた。英吉利は亜剌比亜半島で、土耳古軍勢力に対抗する亜剌比亜
人の蜂起を支援して、南から土耳古に圧力をかける戦略に転じた。
 人々は、この戦は十年は続くのではないか、と噂し合うようになってい
た。 
 
 銀次郎の寄贈による青山学院の新校舎の起工式は、大正6(1917)年1月
21日に厳かに執り行われた。

 この年、制海権を連合国軍に掌握されていた独逸軍は、潜水艦「Uボート」
による「無制限潜水艦作戦」に打って出た。
 地中海を航行する日本の傭船も、たちまち「海の狼」Uボートのターゲッ
トとなり、魚雷攻撃で海の藻屑と消える船が後を絶たなかった。
 だが、札束を握り締めた日本の船主達は、東南アジアをめぐっては、船を
買い叩き、船員を集めては、西方の海域へ送り出した。物資の運搬はひきも
きらないから、船価は青天井。Uボートで持ち船が沈められようと、船主に
は莫大な利益が転がり込んだ。
 
 持ちなれない金が湧いてくるように懐に転がり込む船主を始めとして、日
本は俄に成金ブームが起こった観があった。花隈の料亭街も大賑わいの繁盛。 
 帰りに足元が暗いからと、玄関先で靴を探す下足番に、百円札に火をつけ
て蝋燭代わりにした成金が現れた、という風刺画まで出る始末である。
 しまいには、山本唯三郎のように、「おい、東京へ行くぞ」と、寝台車を
借り切って、お気に入りの花隈・祇園の芸者衆を引き連れて上京する者まで
現れた。
 銀次郎も、そうした現場に居合わせながら、じっと、東京で進む工事の進
捗を気にしていた。

 新校舎の基礎工事は念入りに行われた。木造の院長館は半年余りして出来
上がったが、新校舎の定礎式が行われたのは起工から半年以上も経過した八
月三日のことであった。
 
 「母校へ大きな贈り物をなされると伺いましたが」。ある日、内田信也が
銀次郎に話しかけた。「まあ、思うところがありまして」と銀次郎。
 「私は、思い切って事務所を新築しようと考えました」。
 「ほお」。
 「今、事務所は神戸の建築士に図面を引かせています。欧州風の石造を思
わせるような建物を、と考えております」。
 簡単に言っているが、当時は国内の建設資材を始めとする物価も、好景気
と歩調をあわせるように高騰を続けていた。しかし、内田にとっては、今風
に言えば「関係ねぇ」という気持ちであっただろう。
 しかし、このとき、銀次郎も会社の新社屋の設計を、辰野金吾に依頼して
いたのだった。
                         (この項つづく)


2008年1月5日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(27)

カテゴリー: - dr-franky @ 20時15分22秒

新年、明けましておめでとう御座います。
本年も宜しくお願いします。

 大正5年1月、青山学院へ二万円という大金の寄付を申し出た銀次郎は、
その半年後の7月、高木院長に宛てて手紙をしたためた。

 銀次郎からの書簡を受け取った高木院長は、封を解いた。
 書簡の内容は、青山学院のために煉瓦造による永久建築の校舎一式と、院
長館に係る建設費用一切を銀次郎が青山学院に寄付をする、というものであ
った。
 驚きつつも、高木院長はとるもとりあえず、銀次郎に対して、寄付の申し
出に対する謝意を伝えるべく机に向かった・・・。

 それから数週間後。青山学院の臨時の理事会が召集された。
 席上、高木院長は学友・勝田銀次郎(在神戸)から、新校舎、院長館の
寄贈申し出があったことを報告した。理事会では銀次郎の申し出を受けて
新校舎と院長館の新築計画の実施を全員一致で承認した。

 理事会の結果は、いち早く銀次郎に伝ええられた。
 銀次郎側は、ただちに学院の事務方と、新校舎などの建設に向けた詰め
の協議を開始した。
 銀次郎としては、設計は辰野金吾の事務所にお願いをしてもらいたい、
という意向であった。東京停車場も竣工し、次は国会議事堂を手掛けよう
か、と老いても意気盛んなこの建築界の長老こそ、青山学院の顔となる新
校舎の設計を委ねるのに相応しい「アーキテクト」である、という思いで
あっただろう。ひょっとすると、既に辰野に新社屋の設計を依頼していた
山下亀三郎から評判を聞いていたせいかも知れない。
 依頼を受けた辰野建築事務所では、校舎館の担当に片岡安、院長館の担
当を葛西万司の両技師と定め、建設予定地の調査を踏まえ計画概略図と概
算工費見積書を作成し、まず銀次郎側に提示した後に、青山学院側に提出
した。
 学院では二度の理事会で、計画概要に検討を加えて修正意見を附した。
 最終的な設計が固まったのは大正5年も押し迫った12月のことだった。
 施工業者も、「神戸の業者に是非」という銀次郎の意向を受けて、神戸
に根拠を置く金田組工務店に白羽の矢が立てられた。同工務店は、西宮・
今津の出で、神戸の棟梁・岸本甚八郎の元で長らく下積みをしていた金田
兼吉が、明治41(1908)年に独立して開いた、当時としては中堅の請負業
者であった。                  (この項つづく)


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