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2008年8月16日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(52)

カテゴリー: - dr-franky @ 12時24分50秒

 銀次郎は橘通の市役所へ向かう前に、商業会議所へ立ち寄った。
 会頭の滝川儀作が出迎えた。
 「神戸として救援せねばならない」。銀次郎の言に、儀作は大きく
うなづいた。「今しがた、会議所の会員に一人参萬円をめどに義捐金
を呼びかけました。」
 「じゃあ、私は市役所で市長に会った後にでも、心当たりをたずね
て回って説得してみよう」「よろしくお願いします。私も救援物資の
買出しに出かけます。それと、三井物産の川村支店長から、救援物資
輸送に船を提供する、という申し出がありました」「ありがとう。市
長にも伝える」。

 フレンチルネッサンス風の市庁舎に着くと、銀次郎は市長室へまっ
すぐ向かった。石橋市長が幹部と、義捐金の募集などについて打ち合
わせしていた。
 銀次郎は石橋市長に事の次第を伝えた。
 「物資は順番に送り込んで行きましょう。明日中には神戸を発ちま
しょう」。「わかった。三井物産、商議所にも連絡をお願いします。」

 銀次郎は、まず西は舞子、東は御影あたりまで、知己の素封家や資
本家をたずねて回って、義捐金の拠出を説いて回った。
 義捐金は、儀作は壱百萬円をめどに考えていたが、最終的には壱百
五拾萬円以上の大口義捐金が寄せられた。
 銀次郎が駆け回る一方、儀作は主だった商店街をたずねて、「在庫
品でも訳ありでも構わないので、安くで物資を提供してくれないか」
と呼びかけて回った。
 商店主たちの反応はすばやかった。瞬く間に、指定した港ちかくの
保管場所に、ステテコや浴衣といった衣料、どんぶり、鉢、箸などの
食器、長持など家財といった物資が運び込まれた。その規模、時価弐
百五拾萬円。しかし儀作の中での予算額は五拾萬円である。だが、商
店街の「大将」たちは、「人さんが困っているときにそろばん勘定な
んてでけへん」と、無償での提供を申し出ことに、儀作は胸を打たれ
只ただ頭をたれて、感謝の意を表すより他なかった。

 取り急ぎの救援船は、川村氏の手配で、上海丸と決まった。
 集積場所からはしけによって、市民の善意の品々が上海丸の船腹に
収められていった。そしてメリケン波止場から、石橋市長、商議所代
表として会頭の儀作、市会議長の銀次郎も、被災地へ向かうべく、メ
リケン波止場から上海丸へ向かうランチの人となった。
 二日おそく、物資を満載した上海丸は神戸港を出発した。
                        (この項つづく)


2008年8月4日(月曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(51)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時13分16秒

 大正12年9月1日、神戸は相変わらず暑かった。

 「二百十日か」と少し頭によぎったが、銀次郎は芳夫人に見送られて
車上の人となった。
 腰高な車に揺られること二十分弱。銀次郎は旧居留地の会社に着いた。
 
 幹部会議、書類の決裁、打ち合わせなどなど雑務をこなす。合間には
頻繁に面会客もある。
 そうこうしているうちに、時計の針は正午を指そうという頃になって
いた。

 と、そのとき、銀次郎は事務所のビルが長い周期で揺れるのを感じた。
 「・・・地震かっ」揺れは1分近く続いただろうか。

 地震の揺れが収まってしばらくして、部下の一人が「東京方面への電
信電話が途絶したそうです。」と飛び込んできた。

 「どこで起こったのか」。銀次郎は神戸海洋気象台にも照会をするよ
う部下に命じた。
 夕方近くなって、秘書が銀次郎に電話を取り次いだ。「川崎造船所の
松方様です」。

 「松方さん、大きな揺れでしたが。」銀次郎が問うと
 「勝田さん、一大事だ。東京・横浜が壊滅だ」。
 一瞬、銀次郎は絶句した。

 「お父上はご無事ですか」。東京には松方の父・正義がいる。
 「いや、まだ何も伝わってこないのだ」。
 銀次郎は、この11日前、川崎造船所が、松方が独逸からもたらした
最新技術を活かして建造した最新鋭の潜水艦・第70号潜水艦が、淡路島
仮屋沖で消息を絶ち、社を挙げての懸命の捜索が続いていることを知って
いた。松方はその捜索の総責任者でもある。そこへ追い討ちをかける様な
今回の地震である。

 「とにかく、神戸として、東京方面の救援体制を立ち上げなくては」。
 銀次郎は説いた。
 「もちろんだとも。おいどんから新聞社に、義捐を募る記事を明日出す
よう話をする。」「よし、ならば行政は私が掛け合いましょう」。
 受話器を置くや否や、銀次郎は秘書に向かって叫んだ。「車だ!市役所
へ乗り込むぞ」。              (この項つづく)
         
 


2008年7月26日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(50)

カテゴリー: - dr-franky @ 12時23分11秒

 「船成金」の館は出来上がったが、銀次郎の人生はまだまだつづく。
要所要所でナダのまちと交錯しながら。遂に大河ドラマの様相を呈して
きたこの項、引き続き歩付き合いの程、宜しくお願いします。

 大正10年の暮れ、銀次郎は、旧居留地116番の神戸商業会議所へ出向
いた。
 
 商業会議所は、元独逸倶楽部の赤煉瓦の建物に入居していた。バルコ
ニーが廻った植民地風の外観だ。

 鳴り物入りで大同団結した国際汽船の業績も、加盟各社の劇的な経営
改善には程遠い有様であった。
 また、明治40年から10年以上の月日と巨費を投じて整備された新港突
堤は閑古鳥が鳴き、宝の持ち腐れといってもいいようなありさまだった。

 「やはり、神戸の町の経済が動かなければ、港も海運も潤わん」。銀
次郎だけでなく、他の商議所のメンバーも同様の見方だった。

 銀次郎が会議室へ入ると、旧知の大沢商会の森田金蔵が居た。森田は
但馬・美方出身で、亜米利加で5年間下積みで辛酸を舐めた経験もある。
 その日は、商議所がその年の夏に立ち上げた「生糸市場設置委員会」
の最終の話し合いの日だったのだ。

 森田の郷里・但馬は養蚕・製糸が盛んなことで知られていた。森田が
5歳の時に死に別れた父親は、横浜へ但馬の生糸を売り込みに行った先
で客死した、ということを銀次郎も伝え聞いていた。

 明治初めから、但馬や丹後・山城、大和の畿内でも、農村での換金商
品として養蚕・製糸に注目が集まり、篤志家らが出資して(家内工業に
毛の生えた程度の規模・内容とはいえ)、製糸場が各地に建設された。
 しかし、そうした産地からの製品は神戸へ積み出されず、幕末から生
糸貿易商が活動していた横浜へ送り出されていた。
 神戸でも明治の開港間もない頃から、生糸貿易を軌道に乗せようと民
間が努力してはいたが、せっかく明治29年に開設された国の生糸検査所
も、取り扱い高不振で数年後に閉鎖されてしまった。投機の対象でもあ
る生糸を扱う業者には、それなりの経験とともに堅固な資本基盤も必要
だったが、そうした要件を満たす貿易商が神戸に根付いていなかったの
も、神戸が挫折した要因であった。

 だが、畿内での蚕糸製造が設備投資も進み生産高が伸びるにつれて、
「運賃が安く上る神戸から海外へ出したい」という要望が産地側から出
るようになった。
 
 その声に搬送したのが森田ら商議所の有志で、委員会を立ち上げて
「シルクの夢よ、もう一度」とばかりに、神戸経済界の起死回生の一
策として、「神戸に生糸市場を開設しよう」と県や市に提言しようと
していたのだ。
 「ようやっとまとめられましたな」銀次郎が森田に声をかけた。
「いやいや、勝田さん、大変なのはこれからですよ。何しろ、神戸には
生糸の経験の蓄積が無い。海外の商社も、横浜の生糸検査所の格付証書
が無いと相手にしません。まだまだ前途多難、あちこちへ御支援をお願
いしなくてはならないです。」森田の眼差しは遠くへ向けられていた。

 翌年も、厳しい情勢は相変わらずだった。
 山下亀三郎ですら、船員の給与や退職金を支払えない窮地に立たされ、
せっかく手中にした台湾航路の権利を、ライバル会社に「惜譲」して二
百万円を捻出して、会社の大リストラを行い、「山下汽船、倒産」とい
う局面を切り抜ける始末。
 先行きの見通しの付かない中、銀次郎も金策に駆け回っていた。                              (この項、つづく)
 扇港之図(「神戸税関海陸連絡運輸設備概要」より)


2008年7月12日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(49)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時58分06秒

 新しい銀次郎の住まいのお披露目もひと段落が着いた。
 
 銀次郎は、現場監督の平太郎を家に招いた。
 「長い間、ご苦労さんやった」。2年以上、膝詰めで普請の相談を重ねた
間柄、余計な言葉はない。
 「おかげさんで、こんな立派な家が出来上がった。芳も義理の母も大層
喜んでいる。これは、私達から平太郎さん、あんたへの気持ちの印や」。
 銀次郎は、平太郎に金一封を手渡した。

「私のような未熟者が、なんとかこのように仕事をやり遂げさせていただ
けたのも、勝田様のお陰です。日頃からお心遣いをしていただいた上に、
このように過分な・・・」
「いや、平太郎さん、あんたの立派な仕事振りに、私はほれたんじゃよ」

 銀次郎は、未着工の客殿の部分は、手をつけないことを心に決めていた。
 流石の銀次郎も、本業の経営が抜き差しならない状況にある中では、これ
以上の「贅沢」は、取引銀行のことを慮ると、「強行突破」は良くないと
思ったのだ。
 平太郎も、それまでの銀次郎のとのやり取りの中で、言葉の端々から、う
すうすはそのことを感じ取っていた。
 
 そして平太郎が一人立ちするのに充分な経験を積んだことを、武田先生以
上に銀次郎自身が認めたのだ。
 金一封に、銀次郎は平太郎へのはなむけの「気持ち」をしっかりと詰めた
つもりで居た。
 
 「時に平太郎さん。これからどうされるつもりじゃ」銀次郎が尋ねた。
 「一度、吉野へ戻ろうと思っております。かれこれ10年以上になりますから」
 「そうか。あちらへ戻っても、達者で」。

 銀次郎は、辞して坂道を下りていく平太郎の姿が見えなくなるまで、見送った
のだった。                      (この項つづく)


2008年7月4日(金曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(48)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 ここはおとなしい階段を二階へ上ると、
 杉の戸板に鮮やかに描かれた鷺の絵が出迎える。
旧勝田邸杉板戸絵

  山里の間 床の構成
板戸を開いて進むと、次の間があって山里の間となる。
 客殿をこれから建てる予定であるので、取りあえずの客用の部屋ということだろうか。

  山里の間 次の間との襖と引き手
ここも引き手が部屋の名称を現しているが、そのデザインはやや安直かな、と思ってしまう。
 茅渟の海の眺め

 だが、2階の縁から眺める茅渟の海をひかえたナダの町は絶景である。
マウントビュー

 マウントビューも、翠滴る摩耶の高峰が眺められる。

勝田邸南面現況

 クミンなら一度は住んでみたい・・・あ、いつの間にか時計が平成に進んでしまったが、
とにかく銀次郎らしいでっかい館がここに実現したのであった。(この項、つづく)


2008年6月21日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(47)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時10分09秒

 桐の間の東隣は、芳夫人のための「菊の間」である。
 桐の間と同じように、菊の間も「菊づくし」な空間が展開する。
 まず、襖絵は、当然である。で、欄間も。
 襖(菊の間)

 芳夫人は、いたく菊がお気に入りなのだろうか。銀次郎は菊で妻の居室を彩ったのだった。
 床の間も、例外ではない。釘隠も、引き戸も。正直、やや装飾過剰とも感じられる豪華さが、銀次郎の住まいの「成金趣味」なところなのかも知れない。
 
欄間と襖((菊の間)

 床の間

 ここまで来るとお手洗いを借りたくなるのが人情である。
 菊の間の向うに雪隠があるが、その洗面台には焼き物で、シンクは銅製。
 ここまで凝った手洗い場というのも、そうそうないと思う。

 普通なら、ここまででも十分な規模だが、なんと階段があって二階もあるのだという。青谷御殿の探険は留まるところを知らないがごとく、続くのであった。(この項つづく)

洗面台(1階便所)


2008年6月14日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(46)

カテゴリー: - dr-franky @ 20時17分04秒

 1週間お休みを頂戴してしまいました。すんません。
 
 銀次郎の新しい邸の玄関にしても普通の家の倍は優にある。
「しかし、これはいわば勝手口でして」、銀次郎は続ける。
「ゆくゆくは東側に正式な車寄せのある玄関を作る予定です。」
この時点で、たいていの人は圧倒されてしまう。

旧勝田邸内玄関

 廊下は畳敷き、大旅館もかくや、という総延長二十間の長さで続く。
 
 応接室、仏間そして千鳥の間へ。聚楽の壁に雁がねのわたる様を描いた障子が二方に連なる。計画では隠居だが、茶席も設けることができるように配慮されている。

 旧勝田邸千鳥之間

 食堂である雪の間は十五畳、続きの間も入れると二十三畳半はある。応接にしても仏間や千鳥にしても十畳あり続きの間もつく。これだけでも当時としては贅沢な部類の規模だが、更に廊下は奥へと続く。
 
 「ここが私の部屋です」、と通されるのが「桐の間」である。十六畳敷だが、広さだけではない。少し変わった火頭窓に、桐の紋を対に透かし彫りした杉柾目を用いた欄間が付書院を彩る。桐を描いた障子が二方を囲み、次の間側の障子の上には、桐を浮き彫りにした欄間が取り付けられる。障子の引き手も、釘隠しまで「桐づくし」である。 

 しかも伝統的な構成を土台にしながらも、欄間や明り取りなどの開口には六角形や八角形といった幾何学的なモチーフも取り入れて、新しい感覚を持ち込んでいる。 
 ここまでやられると、クラくらしてしまうが、銀次郎邸の「探
険」はまだまだ始まったばかりなのであった。(この項つづく)
 旧勝田邸桐之間部分


2008年5月31日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(45)

カテゴリー: - dr-franky @ 02時11分27秒

 年が明けて大正10(1921)年5月。
 銀次郎に、大きな変化が起こった。
 なんと第14代神戸市会の議長に選出されたのである。
 本業の海運は相変わらずの不景気だが、政治家としての銀次郎の
活動はますますその比重を増すことになった。
 そして、翌6月。ついに待ちに待った青谷の新邸がひとまず竣工
の運びとなった。

 全体計画からすれば、まだ第二期の段階ではあるが、銀次郎と家
族の住まいの形として一応の完成を見たので、議長就任とあわせて
お披露目をしようと、銀次郎は決めたのであった。

新緑が梅雨で鮮やかに浮かび上がった観音寺山の麓、春日野から
の坂道を歩いてきた人々は、山麓の道に立ち上がった御影石の擁壁
にまず目を見張った。
 
 やがて築地塀がつづく道へ出た。緩やかな上り坂をしばらく行く
と、前方に花崗岩を積んだ小屋が見えてきた。大きな木製の扉があ
った。
 「これはどうも馬なし車の小屋みたいやぞ」誰とは無く言葉が漏
れた。まだまだ人力車が一般的で、自動車を保有する者が少なかっ
た1920年代初頭、自動車用ガレージを自宅に作った御仁はそう
そう少なかったのだ。

 砂利敷の広場に出た。
 玄関には破風の屋根が掛けられ、ガラスをはめ込んだ格子戸の扉
が出迎えている。
 和風建築のように見えて、ガラスの大きな引き戸が迎える、とい
うのは、この時代の人々にとってはある意味「ハイカラ」な趣味に
写ったらしい。

 そうこうしているうちに、引き戸ががらっと開いて、羽織袴姿の
銀次郎が「よう来られた。さあ上がったあがった」と手招きする。

 それはちょっとした探険の始まりであった。(この項つづく)

 


2008年5月24日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(44)

カテゴリー: - dr-franky @ 18時27分02秒

 無事、国際汽船が設立されると、松方幸次郎が渡英し、国際汽船、川崎汽船、そし
て鈴木商店倫敦支店との三社で共同配船のための取り決めを交わした。対外的には
川崎、国際、そして鈴木の称号「かね辰」の頭文字をとって「Kライン」を名乗った
この同盟は、大戦後の不況の中を、欧米の海運会社とわたりあった。
 しかし、そこに参加している会社からすれば、相変わらずの自転車操業、という
状態であった。

 そんな中、伊太利亜ゼノア市で、国際労働機関(ILO)の第二回総会が大正九
(1920)年6月に開催されることになった。この総会では、海上労働の問題が
協議されることになっており、日本へも政府と、船主、船員の代表者の出席要請が
ILOからなされた。

 その当時の我が国の船員の団体は、鈴木文治らが結成した労働者の相互扶助組織
である友愛会の海員部や、海員博済会、海員共同救済会、海員自治会、海員共済会
という5団体があった。友愛会海員部の指導者は、かつて明治四十五(1911)
年に本邦初の海上サボタージュを経験した浜田国太郎で、大戦期には好況を背景に
他の団体と船主に対して賃上げなど待遇改善の共同戦線を張った。そうした中で、
海員団体の合流が考えられたのも自然な流れであった。しかし、そこは結成に至っ
た経緯も異なる団体の寄り合い所帯の悲しさ、代表者選びの段階から話し合いは紛
糾し、労働者の大同団結はいつの間にか自然消滅してしまった。
  
 こんな状況だったから、ゼノアへの代表団メンバーの選定も最後まで紛糾した。

 一方の船主側も、やはり代表者を選考しなかればならなかったことに違いは無か
ったが、こちら側も日本郵船、大阪商船、東洋汽船といった大企業のいわゆる「社
船」系と、山下や内田、銀次郎ら個人経営的な船主の「社外船」系は、ことあるご
とに対立していた。
 しかし、不況下にあって足の引っ張り合いでは、欧米各国に遅れをとる、という
意識が、この頃には社船、社外船双方の船主達の共通認識となり始めていた。
 社外船主のグループである日本船主同盟会と社船グループとの会合で、日本郵船
社長の近藤廉平が、「社船、社外船の区別無く、全日本の船主団体がいまこそ必要
だ」と説いた。これが、過去のしがらみを断ち切るきっかけとなり、最終的に日本
船主協会が結成された。
  
 日本船主協会は、早速、海員側に先手を仕掛けた。賃下げ通告である。
 更には賃金の安い中国人船員を雇い入れ、日本人船員の解雇を打ち出した。
 (こうしてみると、90年近く経った今日、ある意味では同じ状況が繰り返され
ているのである)。港町には失業した船員があふれた。だが、それですら気休め程
度の「経営改善」でしかないのが、当時の状況であった。
 
 そうした中、青谷の銀次郎の新邸の工事は進められたのだった(この項つづく)。 


2008年5月17日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(43)

カテゴリー: - dr-franky @ 01時24分40秒

 国際汽船の設立に向けては、金子、山下らが中央政界に根回しし、
日本興業銀行などから社債引き受けの形をとった融資の約束を取り
付けた。

 船は銀次郎や、山下、内田といった船主以外に、強気で過大な大
戦需要を見込んだ結果、過剰なストックボートを抱え込んだ川崎造
船所の関連会社・川崎汽船が過半を拠出した。
 その川崎の松方幸次郎が、「新会社の役員はおい(私)の会社か
ら」と主張し始めた。
 大正8年、川崎汽船の初代社長・川崎芳太郎が病気のため辞任し
松方が造船所社長と兼務で川崎汽船社長のポストについた。
 海千山千の船主からすれば、新会社の発言権を得ておきたいとい
う思惑がある。そこへ20数名の役員の過半のポストを遣せと言う松
方の主張は受け入れがたい提案であった。
 特に、山下や内田たちにしてみれば、松方の国際汽船の社長就任、
という人事は回避したい事態であった。山下、内田ら3名の役員が
辞表を提出した。
 国際汽船の役員の暗闘が、次第に外部にも漏れ聴こえるようにな
ると、融資を担う金融団が二の足を踏み始めた。
 ここで、大合流が無に帰せば、今までの苦労が水の泡となる。松
方、反松方の2グループの間を取り持とうと金子直吉は斡旋に動く
が、山下、内田らは態度を硬化させた。

 まずは、金子が暫定で役員代表という立場で、社長代行の役回り
を担い、山下、内田らの説得を続けた。ついには、金子が首相官邸
へ国際汽船役員全員に召集をかけて、高橋是清大蔵大臣、野田卯太
郎逓信大臣らにも加わってもらって、ようやく松方の社長社長就任
を認めさせ、山下、内田ら3名に役員への復帰を約させ、大正9
(1920)年の株主総会で正式に国際汽船の体制が整ったのだった。
 それはまさしく、前途多難な船出であった。

 銀次郎も、心情的に山下や内田の立場を支持していた。しかし、
大局からすれば、山下も内田も大人の対応をするべきだ、という心
情を抱いていた。いや、銀次郎にしてみれば、この国際汽船の構想
の破綻は、自らの実業家としての生命が終わる、という思いであっ
たかもしれない。

 「どうかされましたか。」青谷の普請場で、ぼうっと物想いにふ
ける銀次郎に、平太郎が声を掛けた。
 平太郎自身、折に触れ海運業界の苦境を耳にしていた。だからと
言って、消して弱音を吐かない頼もしい施主である銀次郎が、とい
う気持ちからだった。
 「いや、何でもないよ。しかし、お陰さんでいい形で日に日に出
来上がって行くのが、何よりの楽しみじゃよ」。
 敢えて気丈な面持ちの銀次郎であった。   (この項つづく)

ファンエルマーク’K’


2008年5月10日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(42)

カテゴリー: - dr-franky @ 11時51分14秒

 1週間、お休みしてごめんなさい。

上棟式も済んで、新邸の普請が順調に続く一方で、銀次郎の本業の海運
業界には、浮揚の兆しは見られなかった。神戸港沖でも累々と商船群がブ
イに係留されて、諏訪山から眺めれば、西陽に赤く船腹が照らされる、と
いう光景がここのところずっと続いていた。
 それは小樽、函館、新潟、横浜、名古屋、門司など主だった港町では、
どこでも見られた光景だった。

 時計の針を半年ばかり戻して、大正8年の春まだ浅い、ある日の花隈の
いつもの料亭。
 山下亀三郎、内田信也や銀次郎をはじめとする船主たち、それに鈴木商
店の金子直吉が三々五々集まって、この海運不況の打開策をどうしのいで
いくか、話し合いがもたれていた。
 とは言っても荷が無ければ船を動かすあてはない。妙案が出るわけでも
なく、次第に出席者の間に重い空気が流れてるようになった。

 金子は黙想しているのか、瞼を閉じている。沈黙に耐えかねたかのよう
に、金子と同じ年の山下が、「金子君よ、狸寝入りせんと、何かええ考え
はないか」と少しいらだち気味に言葉を投げかけた。
 
 金子は、ゆっくりと、瞼を薄く開いて、ぶっきらぼうに返した。

「簡単じゃ。日本からボロ船を2、3隻スエズ運河へ回航して、運河の途
中でわざと座礁させるんじゃ。そうすりゃ、航路が迂回する分、船が足ら
ん言うて、引き合いも増えるじゃろう」。

 突飛な、人を喰った物言い。しかし一同はどっと沸いた。座の空気も和
んだ。

 景気のよかった頃は、山下、内田、勝田などと個人経営的な船主でもやっ
ていけた。しかし、このような時代では脆弱な中小企業である。答えは大同
団結しかなかった。
 大正8(1919)年8月。松方幸次郎(川崎造船所)など造船業者、山下、
内田、勝田など社外船主各社が所有船計50万tを持ち寄って「国際汽船」
が設立された。
 しかし、「かちかち山」の「狸の泥舟」ではないにせよ、危うさを伴っ
た新会社の船出であった。             (この項つづく)
 大扇港之図(大正中期)


2008年4月26日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(41)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時04分21秒

 神主の祝詞が終わって、銀次郎は、芳と一緒に餅をまいた。
 青谷の高台からは、遠く紀州は友ヶ島まで見渡せた。

 銀次郎は、今日始めて新邸の現場の土を踏む芳や、義理の母みつ
姪子らをつれて、新邸の敷地を「ここが隠居で、そこらあたりがふ
たりの部屋ができる」と、大まかなプランを示しながら歩いて廻った。
 芳もみつも、今住んでいる生田町の家とは比較にならない、壮大な
スケールに、目を見張った。
 
 棟上式が終わり、おおよその建物の規模が明らかになると、銀次郎
の新邸は、忽ち巷の注目の的となった。
 中には、銀次郎と静夫人に子供が無いことを挙げて、「夫婦2人だ
けの住まいとしては贅沢すぎるのではないか」また、「本業の海運が
不景気である中で無謀な企みだ」となどと、銀次郎は謗りを受けた。
 だが、銀次郎は「しみったられたことを言うな、今日一億の富があ
っても、明日の素寒貧を忘れるわけにはいかない。そのとき、貧弱な
小屋掛けでは役に立たない。こうしておけば神戸市に寄付しても、一
かどの役に立つ。ケチケチして金を残して、どうしようというのか」
と反論した。
 密かに持ち船を売りさばく内田や山下のことを意識していたのか、
大戦末期の新造船といい、この新邸といい、道楽と言えば道楽だが、
「我が国の海運界のため」「神戸のまちのため」という理由で「散
財」する銀次郎の行動基準は、ある意味、成金と言う尺度では図りき
れないものがあった、といえよう。

 しかし、厳しい現実は容赦なく、神戸を始めとする汽船業界を覆い
始めていたのである。           (この項、つづく) 


2008年4月19日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(40)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時11分41秒

 材木は・・・、詳しい話は伝わっていないが、恐らくは平太郎監督
の繋がりで、彼の郷里・吉野から運ばれた材が用いられたのであろう。
同じ武田先生の手になる煙草王・村井吉兵衛の東京・山王台の邸宅は、
台湾檜を用いたなどという伝承が残っているのに比べれば、地味なと
ころではある。
しかし、銀次郎の意を汲んで、杉、檜の良材が金に糸目をつけずに
集められたことは想像に難しくない。

 敷地の整地はプランが決まった段階で先行して始まっていた。その
費用−十三万七千円−は、銀次郎の会社の東京支店ビルの建設費用が
ゆうに賄えるものであった。金田組は何時にも増して慎重に丁寧に工
事を進めた。
 工事が本格化するにつれて、人々の噂に、銀次郎の新邸の話題がの
ぼる様になってきた。
 「新造船の次は、千畳敷の御殿だそうな」「内田といい山下といい
豪勢な普請だったから、勝田も通り一遍のものを建てる訳にはいくま
いなぁ」。「それにしても、よっぽど戦争中の景気でしっかり貯め込
んでいたのだろうな」
 その頃、神戸港の沖合いには、ぼちぼち出港のあてのない商船が艀
に係留されて船腹を晒す光景が広がりつつあった・・・。

 大正8年8月21日。銀次郎は芳夫人や親戚の者たちとともに、青
谷の新邸建築の現場に在った。そう、今日は上棟式なのだ。
 木の香りが満ちた新邸の一角で、銀次郎たちは恭しく頭を垂れた。
 金田組の当主・辰之助や先代の兼吉、大工肝煎の常吉をはじめ、大
勢の職人達も立ち会った。
 上棟式での銀次郎と一族

                     (この項つづく)


2008年4月12日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(39)

カテゴリー: - dr-franky @ 21時54分55秒

 海運業の行く手には暗雲が立ち込めていたが、「男は一旦した約束は守るもの」
という銀次郎の美学から、青谷の新邸の計画は予定通り進められた。

 銀次郎と平太郎は膝詰めで図面を挟んで、議論を重ねた。
 神戸には、県庁の北側に小寺泰次郎・謙吉父子が築き上げた屋敷があった。高い
塀で囲われた内部には回遊式の庭園を見渡せるよう、入母屋造の二階建ての館が敷
地の中で一番高い場所に建てられていた。

 布引の川崎邸には、先代の正蔵が、蒐集した美術品を飾る美術館「長春閣」を建
て、明石郡の寺から仏塔を移築していた。正蔵の後継者・芳太郎は、正蔵の建てた
屋敷に加えて、辰野先生の弟子・山田醇に委ねて殿舎式の和館を敷地内に新築して
いた。

 銀次郎としては、そうした先行する和館とは一味違った雰囲気のある建物に仕上
げたいと言う欲望があった。
 そうした意向を受けて、平太郎は、数奇屋を基本に置きつつも、武田先生直伝の
今様の欧州の「セセシオン」のセンスもまぶしながら、図面を描きおこしていった。
それは、建具、床の間の意匠から室内の敷物や風呂場のタイルにまで及んだ・・・。
 議論は、敷地の整地にも及んだ。秋の紅葉の時期には、客殿から、その有様を借
景に眺められるように、とか、大阪湾が見渡せるよう、庭は従前の地形を生かして
なだらかな斜面に作る・・・。
 
 銀次郎、平太郎、お互いにとって最善の図面が出来上がった。
 新邸の新築工事は大正8年の春に始まった。
 平太郎は、勝田汽船の嘱託という形をとって、神戸に腰をすえて銀次郎の新邸の
実施設計と現場監理の仕事に携わることとなった。  (この項つづく) 

 
  
 


2008年4月5日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(38)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時48分57秒

 世界大戦の開戦以来の日本国内のインフレーションは衰えなかった。しかし
ベルサイユ講和会議が終わり、欧州の戦後処理が動き始めた大正8年ごろには、
不定期便の船価は戦中のような勢いはなくなった。
 
 そうした状況をみこしていたのかどうか、成金三羽カラスは海運業以外の他業
種にも手を染めていた。
山下亀三郎は、自社の石炭部門を独立させて、北海道の奔別炭鉱を買収し採掘
を進めた(後に住友に売却する)。また渋沢栄一らとともに扶桑海上保険の設立
にも関与した(後の住友海上火災、現在の三井海上の前身企業である)。扶桑海
上は、「事業の公益性を鑑み」、山下は役員には就任せず、経営を三菱や住友の
出身者に委ねていた。
 
 一番旺盛だったのは内田信也である。内田汽船を設立して間もない大正6年に
貿易事業のために内田商事を設立。また佐賀県有田に帝国窯業、横浜に内田造船
所を作った。内田商事が扱ったのが、昇降機、エレベーターだった。内田商事が
出来た大正6年当時、まだまだ日本には高層建築は少なかったが、内田がシカゴ
の摩天楼建築を見聞していたのかどうかわからないが、来る時代に備えて、アメ
リカのエレベーター会社と契約を結んだのだった。

 銀次郎も、海洋工事を手がける勝田埋築という会社を作ってはいた。しかし、
三井物産出身の石田貞二らが設立した太洋海運の相談役を引き受けるなど、海運
業に並々ならぬ情熱を燃やす銀次郎であった。
 
 そんな銀次郎に、人を介してある依頼がもたらされた。
 革命後のウラジオストックに、革命を逃れた婦女子がアメリカ赤十字社の保護
の下で滞在していた。しかし「避難生活」も3年となり、彼女らをフィンランド
へ送還しよう、と言うことになった。物の運送は手間が掛からないが、人は面倒
である。アメリカ赤十字社は日本の海運業界に、婦女子の送還業務を打診してき
たのだ。
 銀次郎は、持ち船「陽明丸」に、客室装備、その他、人員輸送に必要な儀装を
施すとウラジオストックに差し向けた。3カ月がかりでパナマ運河経由で900
人をフィンランドのヘルシングホルス港へ送り届けた。
 今度はドイツの赤十字社が、自国とオーストリアの捕虜の輸送を依頼してきた。
 そうした儲けにならない仕事でも銀次郎は引き受けた。  (この項つづく)


2008年3月29日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(37)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時41分15秒

 大正8年の年明け早々、武田先生が、銀次郎の新邸の着工に向けた打ち合わせに、
一人の青年を伴って、生田町の銀次郎の屋敷を訪ねてきた。
 
 「このたびはお世話になります。」改まって銀次郎は、武田先生を迎えた。
 「名古屋へ赴いてからというもの、なかなか神戸へ寄せていただく機会に恵まれず、
 御無沙汰しております・・・。漸く、新しい邸のプランも出来上がりましたので、
 これからは、更に具体的な詰めをしなくてはなりませぬ。そこで、勝田さんの御意
 見を承って、図面を描き起こす仕事を、この岩崎君に委ねたいと思っております。」
 と銀次郎は、伴ってきた青年を紹介した。

 「初めてお目にかかります。武田先生の下で製図の仕事をさせていただいておりま
 す、岩崎平太郎と申します。」
 まだ二十代半ばという趣の、書生然とした平太郎青年を銀次郎はまじまじと眺めた。

 「岩崎君は、二十六歳でありますが、桑港での万国博覧会の日本館の現場や、京都
 岡崎の下村邸など、製図と現場管理について豊富な経験を積んできた優秀な技術者
 であることは、私が保証します」。武田先生は任せてやってください、という表情
 である。「岩崎君には、私の代理で、勝田さんの御宅が出来上がるまで、神戸に移
 って貰って、住み込みで勝田さんの御宅につきっきりで仕事をやってもらうことに
 しています。」

 話をするうちに、銀次郎は、平太郎青年が大和・吉野の生まれで、京都で社寺の修
復に携わった後に、桑港に赴いたこと、現地でも仕事の合間を縫って各地を見て廻っ
たことを知った。
 武田先生に促されて、平太郎は一枚の図面を取り出し、銀次郎に見せた。
 「まだまだ下書きですが、新しい御宅の立面図案です」はにかみながらも、平太郎
は銀次郎の眦をしっかと見据えていた。

 「よし、岩崎君。しっかりやってくれ給え。わしもどしどし意見する」。
 銀次郎は、まだ若いこの「製図工」の頭脳と指先に、自分のイメージの具体化の作
業を委ねることを決めたのだった。             (この項、続く)
  


2008年3月22日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(36)

カテゴリー: - dr-franky @ 21時23分35秒

 銀次郎と、武田先生との交渉は、その後も幾度と無く続いた。
 
 「大艦隊が神戸に寄港しても」大丈夫な規模、というのが銀次郎の
注文だったので、武田先生もかなりのびのびとプランを描いたのだが、
色々と銀次郎なりに思うところがあって、平面計画は幾度と無く描き
なおされた。

 大正8年も目前に迫った年の瀬。銀次郎はようやく新邸の計画を承
認した。
 霊峰摩耶の麓に、雁行して広がる殿舎、東に主玄関と客殿を置き、
南向きの場所には、主人室と夫人のための部屋、事務方や台所は西側
に。さらには、当時としてはまだ珍しい鉄筋コンクリート造の蔵も作
る。先行して普請を進めていた山下亀三郎や内田信也の住まいも検分
した上での、銀次郎ならではの「城」、ともいうべき新邸が、具体的
な形を持って姿を現したのだ。
勝田新邸平面計画図

 プランのつめが終わると、具体的な立面に移る。しかし名古屋の高専に赴任している武田先生と海運業界の寵児・銀次郎、多忙を極める二人がそうおいそれと打ち合わせの日程が取れるワケではない。
 そこで武田先生は、信頼する愛弟子を銀次郎の下に差し向けることにした。                   (この項つづく)


2008年3月16日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(35)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時40分00秒

 大正7年11月16日、ちょうど5日前に第一次世界大戦が終結した直後
の東京・青山。
 銀次郎の寄贈した青山学院高等学部校舎の落成記念式典が挙行されよ
うとしていた。
 陸軍軍楽隊による演奏、聖書の朗読、そしてウェインライト博士によ
る祈祷の後、寄贈者の銀次郎が紹介された。
 銀次郎は、講堂の壇上に上がった。

 来賓の数600余名、学校関係者訳60名と学生900名を前に、銀
次郎は話し始めた。
 「・・・私が本学にお世話になったのは、明治24年から25年のこ
とで、当時の院長は本多庸一先生であった。ミス・ヴェイル女史今はミ
セス・ビショップからは様々なことを教えていただいた。
 学校を出てから実業界に身を投じて、学校は長い間御無沙汰をして失
礼をしていた。」
 そして銀次郎は高木院長との出会いから始まる今回の寄贈のいきさつ
に触れた後、学友の一部に「なかなか社会で良い地位に就けない」とい
う不平を述べる者があるということを紹介しつつ、「学閥を頼るのでは
なく、世の中で一人立ちの出来る人物、他に頼らず独立独歩の人間を育
成するのが青山学院の教育方針であって、学閥や他の力にすがって地位
を得ようとする者は出ないはずだ。日本には確かに官学偏重のきらいが
あるのは事実だが、日本の将来を背負って立とうとする者は人に頼る思
想を持つべきではない」と諭した。

 続いて、高木院長が、建物受領の辞を述べた。
 高木院長は「官立の学校や事業に寄付をする者は多いが、私人の事業
に寄付をするものは少ない。それは前者には叙勲などの恩賞が与えられ
るのに対して、後者には何ら報われない。しかし、勝田氏はそのような
ことを気にも留めず、母校を想い、その発展を祈念して多額の寄付を申
し出られ、そのお陰で本校は更なる発展の礎を築くことができた」と銀
次郎への感謝の意を伝えた。

 銀次郎は、この年、高額納税の功で、貴族院議員に推挙せられた。
 ある意味で、銀次郎の絶頂期は、この大正7年であったのかもしれな
い。青山学院の寄贈がひと段落着いて、次はいよいよ青谷の地に、自分
の城を建てる構想を実現する時だ、と銀次郎は決意を新たにしたのだっ
た。                    (この項、つづく)


2008年3月9日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(34)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時44分26秒

 米騒動が起こっても、大方の世間の見方は、「大戦、終結近し」であった。
 しかし、金子直吉は、本店焼き討ちの際の自分への懸賞金など「ヘッチャラ」
とどこぞの「孫ゴクウ」ばりに、相も変わらずの大風呂敷を広げていた。
 それに影響を受けていたのか、我らが銀次郎、大阪鉄工所に、「おい、まだ
まだ船が必要だ」と、新造船4隻を発注した。
 「さすがは勝田はん、やることがちゃうわい」などと、世間ははやし立て
ていたが、裏では「何を考えてるのや」、というのが、一致した見方だった。
 船価は、天井値に張り付いたまま。しかし、もう上がる要素はない。

 内田信也が心配顔で、「勝田さん、何を考えてはりますのや」と居留地の事
務所へやってきた。
 「いや何、金子さんや松方さんの話では、まだまだ欧州方面は手堅いみたい
だから・・・。それに、まだまだ日本の海運界は、船が足らんよ」と、勝田は
持論をぶった。
 抜け目のない船主達は、既に持ち船の整理に取り掛かっていた。ほかならぬ
内田自身も、である。その中での、勝田の新造船発注は、際立っていた。今流
に言えば「KY」呼ばわりされていてもおかしくない情勢である。

 そして 月、案の定、欧州は停戦協議に入った。

 今度は山下亀三郎が、大阪鉄工所に「今だったら、勝田の言い値の七掛けでも
お宅にとってはいい話じゃないか」と、暗に値引きの働きかけを始めた。
 それをどこで知ったのか、銀次郎は「男は一旦した約束は守るものだ。当初の
契約どおり、ことを進めて欲しい」と大阪鉄工所に伝えたのだ。
 これには、旧知の友も、二の句を継ぐことは出来なかった。

 大正7年11月、銀次郎が情熱を傾けた東京・青山学院の「勝田館」が、その
全容を現した。
 その頃には、停戦協議は成立して、欧州に久方ぶりの和平が訪れていた。
                           (この項、つづく)
勝田館落成(大正7年11月)


2008年3月1日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(33)

カテゴリー: - dr-franky @ 14時14分51秒

 ところで、欧州の戦争が始まってからというもの、日本国内は猛烈なインフレーションに
襲われていた。
 特に主食の米は、大正六年後半から供給不足の傾向に、ブローカーや富商の買占めが
拍車をかける形となり、暴騰傾向が続いた。
 翌七年七月、富山県魚津の沖仲仕でもある漁村の女達が、県外へ米を移送する汽船へ
の荷揚げを阻止する動きに出た。これが後年「米騒動」と言われるようになる一連の騒擾の
端緒となった事件であった。魚津での動きは、八月三日には同県西水橋町で、米屋や質屋
等への襲撃、いわゆる「越中女一揆」と言う形で波及し、瞬く間に全国に連鎖していった。

 そして、ここ神戸でも・・・。
 八月十二日、暑い夜だった。銀次郎は、新生田川に程近い、生田町の屋敷で休んでいた。
家の縁でステテコ姿で涼んでいた銀次郎は、俄に市中に鳴り響く半鐘で、ふと我に返った。
 「火事か・・・」。
 しばらくして、表戸をどんどん叩く物音がした。
 爺やが飛んできて、「御主人様、会社の松尾様がお見えです。至急お伝えしたいことが
あるそうです」。
「構わんからここへ通してくれ」。

 若手社員の松尾が庭へ通された。「松尾君、何か急な事態でも起こったのか」
 「社長、東川崎町の鈴木商店が暴徒に襲われました」。「えっ・・・」
 「近所の神戸新聞社も火を放たれたようです」。
 「会社の方は大丈夫か」「今のところは。残っている社員でこれから寝ずの番を
 します。社長は、御自宅の戸締りをしっかり固めてください。幾つかのお家に
 も暴徒が押しかけているようです」。「わしも直ぐ行く」。
 松尾を送り出してから、芳夫人が不安げな表情を見せた。
 「おそろしおすなぁ」「芳、案ずるな、先に休みなさい」。
 銀次郎は、目立たない身なりで家を出て、神戸駅の方角を目指した。
 道中、小さな米屋や質屋が打ち壊しに遭った現場に行き当たった。別の米屋の
店先では、職工のような身なりの男たちが徒党を組んで、米を差し出すように主
人に迫っているのが見えた。
 中山手通近くの湯浅竹之助の洋館造の屋敷の前にも人だかりが出来ていた。

 鈴木商店が陣取っていた旧のミカドホテルの建物は、無残にも焼け落ち、余燼が
ぶすぶすと音を立てて燻っていた。
 元町通を東へ進んだ。途中、四丁目の相生橋警察署の分署の前を通ると、建具は
壊され、折れ曲がったサーベルが転がっていた。「警察もあてにできないのか・・・」
銀次郎は無力感と、焦燥感が入り混じった心持で、旧居留地の事務所に着いた。

 「皆、ご苦労さんやった」。「酷いもんです。兵神館もやられたようです。何でも金子
さんの首に壱〇万円の懸賞金が掛かっている、という物騒なデマも流れています。」
 
 「これは、もう軍隊しか事態の収拾はおぼつかんぞ」銀次郎は、山下亀三郎の事務
所へ電話した。
 「勝田君、鈴木のご家中、金子はんは無事や」。開口一番、山下は銀次郎に最悪の
事態が避けられたことを伝えた。「もう後は、姫路の師団しか打つ手はないですな」。
「それは、わしも同感だ。しかし、知事が煮えきらんのや。もう少し押してみないと」
 結局、清野知事が姫路師団に出動を要請したのは、翌十三日の午前5時のこと
だった。                        (この項、つづく)
 


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