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2010年12月21日(火曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(75)

カテゴリー: - dr-franky @ 13時00分20秒

 昭和8年(1933)5月、銀次郎は2度目となる神戸市会議長に就任した。

 黒瀬弘志市長の任期は3ヶ月後に迫っていた。
 梅雨入りの頃には、にわかに黒瀬市長の後継者調整の動きが活発となり
始めていた。
 新政会は、早くから銀次郎を次期市長候補に、と見込んでいた。古株の
議員が断続的に、銀次郎と面談して市長候補の受容を要請した。だが、銀
次郎は笑いながら「わしは市長をやるほど耄碌はしとらんぞ」と、やり過
ごしていた。

 戦前期の市長の選考は、公選制では無かった。内務大臣の命令を受けて
市会で市長候補を3名選出、中央で裁可を得るという中央集権的色彩の強
い手続きだったものが、大正15年(1926)の制度改正で市会での選出で決
めるよう改められた。

 銀次郎が市長候補を受諾しなかった大きな理由は、事業の整理がまだ道
半ばだったことだ。
 市会議員は企業の役員など兼業が認められていたが、市長となるとすべ
ての役職を返上しなければならなかった。
 木本たちの奮闘があるとはいえ、現在の金額で数十億円単位の債務を抱
える銀次郎にとっては、「今は身動きが取れない」というのが本音だった。

 市会副議長の前田二一六、新政会古参の佃良一らが引き続き説得にあた
ったが銀次郎は首を縦には振らなかった。

 8月16日、任期満了に伴い黒瀬弘志は市長を辞職した。黒瀬前市長を支持
してきた公政会は候補者を擁立するには至らなかった。
 当面、市長職務は梅津芳三助役が代行することとなった。

 前田らは政友会の砂田重政代議士にも、側面支援を要請した。銀次郎と
同じ愛媛出身で、弁護士として海運業界とつながりが深かった砂田は快諾
すと勝田系企業の債権者である銀行との交渉に乗り出した。

 10月になって新政会は正式に銀次郎を次期市長候補に推薦することを決
定した。市会の市長選考委員会も無産政党所属の委員を除いて、というこ
とは事実上、圧倒的賛成多数で銀次郎を推薦する決議をしても、銀次郎は
態度を変えなかった。

摩耶を始め六甲の山並みがすっかり秋色に染まった頃だった。
 市会の情勢を見守ってきた、黒瀬前市長を支持する公政会は、候補者を
立てていなかったが、この期に及んで正式に黒瀬前市長の三選反対を表明
した。事実上の銀次郎支持のサインだった。

 銀次郎は決然と市長への立候補を表明した。

 歳の瀬が迫った十二月二十日、臨時の市会が招集された。議題は第八代
神戸市長の選挙である。

 冒頭、無産政党の2議員が議場から退席した。

 続いて信任の投票が始まった。
 結果、勝田銀次郎を信任五十六、白票一。事実上、満場一致で銀次郎
が市長に選出されたのだった。実に第四代鹿島房次郎いらい、20年ぶり
のことであった。

 この年、銀次郎が情熱を傾けた青谷御殿は、ひっそりと天理教に譲渡
されていた。債権者の金融機関と建物を活かしつづけるということで、
合意に達したのだった。主が不在であった館は、やや趣を変えて第二の
人生を歩もうとしていた。

 十二月二十一日午後。銀次郎は第一礼装で神戸市役所に登庁した。
                       (この項つづく)
市長時代の勝田銀次郎(昭和10年頃)


2010年12月19日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(74)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時39分13秒

 昭和6年のある日、銀次郎は某所で中井一夫と向き合っていた。
 銀次郎は、翌7年(1932)2月の総選挙に出馬しない意向を固めていた。
 「中井さん、やはり代議士というのは政治に専念できる環境に居る者が
  ふさわしい。整理中の会社を3つも抱える私には、荷が重い」。
 銀次郎は中井に次回総選挙の立候補を促したのだ。
 前の選挙で、ある意味、自分の我儘を通す形で銀次郎を担ぎ出した中井
に、銀次郎の要請を断る理由はなかった。
 
 昭和7年(1932)2月の、総選挙で民政党候補で神戸市からは砂田重政と
ともに中井一夫が2回目の当選を果たした。

 その頃、神戸市議会は国政における民政・政友両党がしのぎを削る情勢
を反映して民政党系の公政会、政友会系の新政会が二大派閥であった。
 おりしも黒瀬弘志市政も2期目の終盤に差し掛かりつつあった。生糸検
査所の移転・拡張、そして農林省への移管を始め、神有電鉄の建設や阪神
電鉄の地下延伸で発生する残土を用いた新湊川や新生田川改修など経済対
策としての公共事業の展開・・・、財政的に厳しい中で神戸市政を舵取り
してきた内務官僚出身の黒瀬の手腕は堅実であった。
 だが、謂わば「市長与党」である公政会では、黒瀬の3期目については
「白紙」という空気であった。後継の市長は誰が適任か、水面下での模索
が始まりつつあった。
 
そうした中、銀次郎は勝田汽船を始めとする自身の関係する3つの会社
の整理を進めていた。
 総勢50人程の陣容だった勝田汽船も、今や木本幸吉ほか1名の2人が残っ
て銀行団と折衝を重ねていた。木本らの粘り強い交渉で大口債権者だった
在阪某有力銀行が20万円の債務を5千円まで棒引きしようと申し出てくれた。
「その代り」、担当者は木本に条件を出した。
「勝田社長に、いちど当社へ出向いてもらって頭を下げてもらいたい」。

 それから暫く後、高麗橋の石造りのビルの一室。薄暗い応接室の固い椅
子で銀次郎は、融資担当の重役と向かい合っていた。
 銀次郎は深々と頭を下げ、自身の経営の失敗から迷惑をかけたことへの
謝罪をした。重役は「勝田さん、こういっちゃあ何だが、わたしども恐慌
以降、経営に難渋している。なんとか一万円まで手当いただけませんかね」。

 西日の差す旧居留地のビルの一隅。勝田汽船の狭い事務室に銀次郎が戻
ってきた。
 「社長、いかがでしたか」。木本が机から立ち上がって出迎えた。
 「木本君」、銀次郎はぶっきらぼうに言った「一万円で話を付けてきた」。
 木本の顔から血の気が失せた。「社長、何いうてはりますねや。そんな
余裕はあらしません」。銀次郎は額に青筋を立てて、今まで辛抱してもら
った見返りだ、何とかしろ、と怒鳴る。その場を何とか押さえ銀次郎を送
り出した木本は、すぐさま三ノ宮駅へ走り大阪行きの汽車に飛び乗った。
再び銀行側に実情を訴えて、銀次郎の「空手形」を「回収」するために・・・。

 こうしたことを繰り返して、木本たちは銀次郎の3つの会社の債務を
へらしていったのだった。           (この項つづく)


2010年7月19日(月曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(73)

カテゴリー: - dr-franky @ 17時48分18秒

 昭和6年のある日、銀次郎は東京を発って西へ向かう列車の車上に
あった。
 草津のあたりを過ぎた時分に銀次郎は浅い眠りから覚めた。
  
 今と違い、缶飲料などない時代である。
 銀次郎は扇子を開いて煽ぎながら、なんとなく車窓を眺めていた。
 
 大阪駅を出てしばらくすると、線路は長い長い直線に差し掛かる。
 松林が見えてくる。武庫川である。
 「川を越えるたびに神戸へ近づく」、いつも東京からの帰りに、
銀次郎は当たり前だが、こう心の中で思いながら列車が神戸へ滑り
込むのを心待ちにするのであった。
 
 精道村や本山、住吉のなだらかな斜面地はあっという間に彼方に
過ぎ、やがてひと際高い峰が、近づいて来るように見える。
 「摩耶山が見えた」。もう我が家に戻ってきたかのような安堵感を
銀次郎は覚えた。

 列車の左手にはさっきから朝陽を反射した大阪湾が広がっている。
 やがて黒々と煙を吐く高煙突が見始める。脇浜の製鉄工場群だ。
 そうしたなか、一瞬、白い帯が布引から省線の線路へ向かっている
のが見える。
 「おお、かなり出来上がっておるなぁ」。銀次郎は思わずうなった。
 これは、三宮へ乗り入れる阪神電鉄の地下軌道の工事で出た残土を
使った新生田川の埋め立て工事の現場なのである。

 銀次郎が衆議院議員に当選した昭和5年(1930)は、まだまだ世界
恐慌の影が神戸の町に暗い影を落としていた時期であった。
 神戸市は失業対策として、市独自に、また場合によっては国庫補助
を得て、河川改修事業や道路改修の事業を起こした。

 新生田川の暗渠化は、直接は失業者対策ではなかった。すべからく
神戸の川は普段は水が少ししか流れておらず、長じて町のごみ捨て場
の様相を呈する始末だった。
 そこで、新生田川に蓋をして、旧湊川のように河川敷の上をを市街
地にすればよいという発想で、河川トンネルと緑地の整備が行われる
ことになったのだ。

 この暗渠化が後の銀次郎を始めとする神戸の人々を悩ませる原因の
一つとなるのだが、そんなことは夢にも思わない銀次郎は、定刻通り
列車が神戸駅に滑り込むと、改札口の出迎えの市職員を従え、足早に
地方裁判所東隣の市役所庁舎へ向かった。 (この項つづく)   


2010年6月28日(月曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(72)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時01分16秒

少し早い桜の開花のころから、気付いたら梅雨の終わりごろに
差し掛かっていた。先を急ぎたい。

昭和5年(1930)2月20日、普通選挙となって2回目となる第
17回衆議院選挙で、銀次郎は神戸選挙区で野党・政友会から
立候補し、トップ当選を果たした。
 神戸の海運界が一致団結した末の勝利であった。「それは
清い立派な選挙戦だった」と勝田を担ぎ出した中井一夫は胸
を張る。だが、与党・民政党に与する官憲は、選挙違反が
あったとして、勝田陣営の選挙参謀格である佐藤國一と松本
博邑の逮捕状を請求したのだった。

 松本は、半年もの間、各地を潜伏して勝田の当選が確定した
のちに警察に出頭した。兵庫警察署に収監された佐藤に、番頭
格の大原尚三が算盤片手に接見の許可を求め、鉄格子越しに大
陸からの石炭運搬便の契約の裁決を仰ぐ、という苦心をしなが
ら、社長逮捕という異常事態の中で佐藤汽船の存続を賭けた交
渉を重ねるという逸話もあったが、詳しくは触れない。
 ともかく、松本や佐藤らの身を賭した闘いもあって、銀次郎
は当選を確かなものとしたのだった。

 当時は、例えば、神戸市参与会(=市会)議員と兼務する形
で衆議院議員を務めることが制度上できた。銀次郎は市会議長
という重責を担いながら衆議院議員に就任するという道を選択
した。
 その前年、銀次郎は国際連盟神戸支部長に選任。また6月には
神戸に行幸した天皇陛下に拝謁を許され栄誉にも浴した。ます
ます公務にいそしむことになる銀次郎であった。
                   (この項、つづく)


2010年3月28日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(71)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時56分12秒

現職代議士に、自分の後を継いで次の衆議院議員選挙の出馬を
要請されるという予想外の展開に、銀次郎は当惑していた。
「次出るのは中井さん、貴方自身ではないのかね」と銀次郎は
質した。

「いや、中央政界の汚さが、私はどうしても許せんのです。」
と、この青年代議士はため息をついた。
 少し前の田中義一政友会総裁への乾新兵衛の資金融資を仲介
したと主張する東京の佐藤繁吉が、300万円の融資成立の報
酬として48万円の支払いを田中陣営に求め、田中、乾の双方
が融資話を否定する、という騒動が巷をにぎわせていた。
 また銀次郎とも近く、神戸に縁の深い内田信也も、政界に転
身していたが、憲政会の加藤総裁に普通選挙制の導入阻止を条
件に「珍品五品」を贈ったという「珍品五品事件」もあり、与
野党ともに利権・金まみれという有様。

 華々しいデビューを飾った中井も憤懣やるかたない、という
風である。
 「中井さん、貴方の気持ちはよくわかるよ。だから私だって
そんな醜い世界はいやなんだ」。銀次郎はやんわりと中井の要
請を断ろうとしていた。
 しかし中井は、「当選が確実なお前が出ないなんて正気の沙
汰じゃない。どうしても出ないというなら当選確実な代わりの
候補者を見つけてこい」と民政党の選挙責任者に厳命にされて
いた。

 その日は引きさがった中井だったが、ある夜、徹夜覚悟で銀
次郎を説得にかかった。さしもの銀次郎も、中井の熱烈なアタ
ックに音を上げる形で、出馬を承諾した。「中井さん、あなた
が選挙参謀をやるという条件付きだ。」というひとことを添え
て・・・。
 しかし神戸の船主たちのグループに「銀次郎出馬の意向」が
伝わるとメンバーから「海運界の代表を送り込むのだ」という
盛り上がりが起こった。結局、銀次郎の元部下の松本博邑と佐
藤国汽船の佐藤国吉が参謀役を買って出た。(この項目つづく)


2010年2月21日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(70)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時28分28秒

 一週間のご無沙汰、どころか2月も最終週に突入してしまった。
 遅ればせながら今年もよろしくお願いします。

 昭和4年のある日、銀次郎は、いつものように旧居留地の一角
に建つビルにある、自分の事務所へ顔を出した。書生の永原が、
「実は、社長に面会の申し込みをされているお方があります」と
告げた。
「誰だい、また変な記者じゃないだろうな」。銀次郎は、いぶかし
がった。
 永原は「衆議院の中井一夫議員です」、といった。

 中井一夫は、東京帝国大学法学部を卒業した後、神戸地方裁判
所の判事に任ぜられた。大阪・船場の薬屋を営む父の影響を受け
て、一夫はかねてから政治家の道を探っていた。
 3年後、終身保障の判事の職をあっさり投げ出すと、中井は東
京の砂田重政と共同で、兵庫県庁の西、基督教青年会館近くの下
山手通6丁目に弁護士事務所を開いた。
 おりしも、普通選挙を求める声が労働者を中心に盛り上がって
いた時期、犬養木堂が打ち出した政界革新論に感化をされた少壮
の青年弁護士の胸中には、少しでも早く政界へ打って出たい、と
いう気持ちが湧いていた。 

 大正13年、悪法「治安維持法」と抱き合わせ販売のようにして、
投票者の所得制限を撤廃する普通選挙法が公布。その3年後の昭
和2年、普通選挙法公布後初の兵庫県議会選挙で、応援演説での
弁舌の威勢のよさを買われた中井は、「知らないうちに」葺合選
挙区から立候補をする手続きをされて、政府与党のベテラン議員
を向こうにまわして善戦し、新人ながら3位で当選を果たしたの
だった。ちなみにトップ当選は、日本労農党から立候補した関西
学院文学部の教員・阪本勝であった。
 昭和3年、衆議院が解散をすると、中井は政友会から神戸一区
で立候補し、当選を果たした。

 「次の選挙はまださきのはずだが、気の早い支援依頼なのか」
位に中井からの面談申し込みの理由を銀次郎は思いながら、面会
の日取りを永原と打ち合わせしていた。

 数日後、銀次郎の事務所の応接室で、緊張した面持ちで待つ中
井の姿があった。
 銀次郎は一つ咳払いをして応接室に入った。
 「このたびは、お忙しい中、お時間をいただき、ありがたく存じます」。
深々と中井は頭を垂れた。
 「中井先生、今日はまたどういった御用向きで」。銀次郎は問うた。
 
 中井は真顔で、 「実は、勝田様、いや勝田先生に、次の衆議院
選挙に打って出ていただきたくお願いに参った次第です。」と銀次
郎に懇願をした。

 「え、このわたしが、か。」あまりに唐突な話に、流石の銀次郎
も一瞬たじろいだ。
 「だいいち、次の選挙に出るのは中井先生、貴方なのでは。」  
 銀次郎は現役代議士の意外な依頼に困惑していた。(この項続く) 


2009年12月31日(木曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(69)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時27分13秒

幸次郎は武と差向いで正座した。武は常ならぬ気配を感じ取っていた。

「オイが会社を潰したのも同然。コイ(この)腹ば、オモサマ(思い切って)
かっさばいて責めをカラウ(背負う)」。

 武は一瞬当惑の眼差しとなったが、すぐさま幸次郎を戒めた。
「今、この時期に、社長、あなたがが自決することは、なるほどサムライ
らしく潔いかもしれない。しかし、それはこの難局から逃げることに他
ならない。川崎の救済を敢行すべきです」。

 幸次郎は高揚して「オイは死ぬことは恐ろしくはなか」とまくし立てる。
 武は「あなたの今の自決は卑怯千万ですぞ」と重ねて幸次郎の軽率さを
指摘した。

 武の般若のような面持ちを見据える幸次郎の眼に光るものが溢れていた。

 それに気づいた武は、しかし気持ちを押しとどめるように「事態が進退
極まることと道が開けていくことは紙一重、そのつもりで明日から物事に
あたってください」と幸次郎に語りかけた。幸次郎は「うん」と小さく
頷いた。

 8月、幸次郎は
1 会社抵当法により資金二千三百五十万円を借り入れ、社債償還と手形
 決済に充当。
2 自社所有地で神戸市内の不要な土地を売却。
3 それ以外の不用な財産の処分を促進。
などを柱とする整理案を債権者に提示した。
 政府による救済案を作成した郷男爵が大口債権者の9つの銀行団と川造
とのあっせんの労を担った。

 そのころ、神戸高等商業学校の平井教授が市民による川造救済の献金を
呼び掛ける、今日でいうところの勝手連運動を展開した。
「一民間企業の問題では済まされない。「大神戸」の命運が、川崎に掛って
いる」あらゆる席で平井は川崎救済の意義を説いて廻った。
 
 そして、銀次郎も神戸市会にあって、神戸市による川崎への資金の供与
を市会議員団や市当局に働き掛けていた。 

 銀次郎は人を介して、平井教授と面会した。銀次郎は開口一番、「私も
川造を神戸市あげて助けるべきと考えている。平井先生、あなたは川崎造
船所に頼まれて、触れて回っておられるのでもあるまい。
 どの様に思われておられるのか。お考えを受け賜わりたい。」と質した。
「勝田先生。」平井は銀次郎に向って持論を披露した。
「川崎に働く社員・職工の後ろには、協力工場のけ英医者・労働者や家族、
そして彼らが金を落とす新開地・福原をはじめとする無数の商店が控えま
す。川崎が「座礁」すれば、彼らは路頭に迷うことに直結します。」
 それ以上の言葉は不要だった。「愚問でした。私は市会と市の幹部を説
得しましょう。頑張りましょう、お互いに。」
「宜しくお願いします。」

 翌昭和三年(1928)五月、川崎が兵庫工場の車両製造部門を分離し
て、川崎車輛株式会社を発足させたのと同じ時期、神戸市が川崎の経営陣
に、三百万円の資金融資を行う用意があることを打診した。
 川崎の負債額からすれば取るに足らない金額であったかもしれない。し
かし、経営陣、とりわけ幸次郎には平井や銀次郎らの無償の奔走に無上の
感謝の念を抱いていた。

 幸次郎が株主総会で三十二年に及ぶ川崎造船所社長の椅子を明け渡すこ
とを表明したのは、それから間もなくのことであった。

 九月、神戸市会は川崎造船所への資金融資の件を満場一致で議決した。
その陰には内には銀次郎の市会内での根回しと、平井教授の市民の世論
醸成が功大であったことは言うまでもない。   (この項つづく。) 

 本年も最後までお下さり、ありがとうございました。年明けからは、
いよいよこの物語も第三幕へ突入します。来る年もお付き合いの程、
宜しくお願いします。  


2009年11月30日(月曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(68)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時59分33秒

 海軍にしてみれば今、発注している巡洋艦、潜水艦だけでなく
今後の艦船建造にも、川崎造船所の今後が大きく影響することを
感じ取っていた。
 「事は一民間企業の問題にあらず」。7月19日、海軍は閣議の
了承を得て海軍艦政本部臨時艦船建造部の設置を決定した。
 ようは川崎造船所に海軍省の艦船建造の部署を置き、艦船建
造に従事する職員約6千人もろとも海軍省の管轄のもとに置き、
川崎造船所で建造中の7隻の艦船(巡洋艦1、潜水艦6)の工
事を遂行しようというのだ。
 窮場のしのぎはできた。しかし「海軍の威を借りて」という
反発が世論から起こるであろうことも、また予想はたやすい。
 幸次郎の心の中は、まだ自力での造船所の経営立て直しが大
きく占めていた。「あとは人員整理しか、なか」幸次郎は苦渋
の決断を下そうとしていた。
 
 艦政本部臨時建築部の看板が川崎造船所の正門に掲げられて
から10日後、川崎造船所は約三千人の人員整理に踏み切るこ
とを公表、8月には追加で三百人の付属員を解雇、ほかに職員
約二百三十人を休職とした。残った職員も給与の10%カット、
幹部職員は報酬を返上、幸次郎自身も私財五十万円を会社に拠
出した。

 初秋のころ、幸次郎は役員室の関係職員のために、慰労の宴
席を設けた。経済的にも苦しい中、川崎造船所立て直しに奮闘
する者たちばかり。日頃の労に報いたいとの幸次郎のせめても
の心づかいであった。
 花隈の料亭で、一堂は天婦羅をふるまわれた。久々のごちそ
うに、皆、相好を崩し、カリカリに揚がった衣の歯ごたえを楽
しんでいた。

 宴席も、酒も入り崩れてきたころ、幸次郎の右腕的存在であ
った武文彦は、幸次郎から声を掛けられた。
 「武君。いっと(少し)」。武は宴席から離れた座敷へ招き
入れられた。
                    (この項つづく)


2009年10月31日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(67)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時35分52秒

 川崎造船所は、創業者の川崎正蔵が薩摩出身であったこともあ
り、同じ薩州閥である帝国海軍とともに伸びてきた経緯がある。
川崎の危機は海軍の危機であるとして、まずは政府による川崎造
船所への融資策が国会の審議に付された。
 企業の再建に政府の融資を頼むのはよくあることだが、その国
会の審議で、融資先企業のネガティブな情報が明るみに出るのも、
鈴木商店でつぶさに見てきたように、また然りである。川崎の救
済策、さらには川崎の経営状況そのものも野党勢力に徹底的に追
及される運命にあった。

 野党側は、まず30数年にわたって社長の座にある幸次郎の責を
問うた。
 創業者の川崎正蔵から、幸次郎が造船所の経営を任されたのは
明治30年のこと。折しも社運をかけた旧湊川河口の砂州にコンク
リート造ドライドックを建設する一大プロジェクトが進行してい
る時期だった。

 さらに、後に「榛名」と命名される巨大戦艦建造のため、今度
は36本の支柱で支えられたコレマタ巨大な鉄の檻の如きガントリ
ークレーンも築造し、第1次世界大戦の需要増にも乗った。

 幸次郎自身も、ドイツの最新鋭の潜水艦技術を入手する密命を
帯びて、大戦後に欧州に長期出張し、ついにはUボートの設計図
面を入手、更には独逸クルップ社のトップ技師らをジャワ経由で
日本に招き、自社の技術陣に設計、製造の「肝」を直に学ぶ機会
を作り、帝国海軍の潜水艦の水準向上に大きく貢献をした。

 しかし、最初は潜水艦技術のヘッドハンティング・スパイのカ
モフラージュのため始めた美術品収集が、美術館建設を構想する
程までの規模に膨れ上がり、しかも大戦終結の時期を読み誤った
幸次郎は、ストックボートの余剰在庫で造船所の負債を増やす結
果となってしまった。

 野党はこうしたあたりも念頭に、「一私企業に公金を投入する
のは憲法違反だ」と追及をした。
また折悪く、大倉組から川崎造船所に未払い金の売掛金の支払
いを求める訴訟が起こされた。政府内でも川崎造船所救済の方針
に反対する閣僚まで現れる始末。

 昭和2年7月、大蔵省は川崎造船所救済のための法案の廃案を発
表。巨船川崎は暗礁に乗り上げたかに見えた。

 しかし、ここでも動いたのは帝国海軍であった。(この項つづく) 


2009年9月24日(木曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(66)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 話は、鈴木商店の命運が尽きたその年の4月にさかのぼる。

 幸次郎は、大戦終結後の欧州の経済情勢の見極めもあり、
造船所の汽函の買付のためフランスやイギリスを歴訪した
後に横浜へ戻った。しかし、台湾銀行に続いて川崎造船所の
メーンバンク十五銀行も恐慌のあおりで経営危機に直面し、
三週間の休業に入ったのだ。

 十五銀行は皇族、華族関係の取引が多く「華族銀行」と
呼ばれるほどだったが,一方、幸次郎の兄・巌が頭取を務
めていたこともあってか、川崎造船所も約四千万円の融資
を受けていた。現在の貨幣価値に換算すると八百億円とも
いわれる規模である。
 その十五銀行も、鈴木・台銀ラインが「吹っ飛んだ」影
響で、取り付け騒ぎに飲み込まれたわけである。
 休業で、まっ先に影響がでたのは川崎造船所だ。職工達
の賃金を支払うあてがないのだ。事務方は鳩首額を寄せ合
い、遊休資産の売却を進めたが、運転資金の足しにはなる
という程度。
 川崎社内の変調は、すぐさま街角に現れた。
 まず、職工達が新開地の盛り場へ足を向けなくなった。
 工場の正門を出た人波は、まっすぐ家路を目指す。
 新開地の小屋はがらがら、カフェーの女給たちも手持
無沙汰で、閑古鳥が鳴いた。 
 次第に、下請け業者にもさらに仕事が発注されなくなっ
てきた。建築もそうだが源流をさかのぼれば同じ造船も
総合的、システマティックに作られる工業製品の集大成
であるから、膨大な下請け業者が干上がれば神戸を中心
とした経済圏は大打撃を蒙ることになる。

まず神戸市役所が動いた。黒瀬市長が、首相以下の政府
要人に川崎造船所の救済を要請する内容の電報を送り、ま
た直接面会を求めて上京した。
 これに商業会議所も追随する形で、鹿島房次郎会頭ら幹
部が関係大臣らに陳情を行うため東京行の列車に飛び乗っ
た。人員整理を行わず危機を乗り越えたい、という幸次郎
ら川崎造船所の経営陣の思いを知っているからこそ、の行
動であっただろう。        (この項、つづく)            


2009年8月22日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(65)

カテゴリー: - dr-franky @ 19時48分47秒

 恐慌のボディブローが効いてきた、昭和2年の暮。
 銀次郎は栄町通を通りかかった。かつての鈴木商店本店であった3丁目の
町屋の近くで、金子を見掛けた。
 「金子さん」銀次郎が声をかけた。憔悴し切った金子の姿は、自身も事業
を整理している立場にある銀次郎から観ても、あまりに痛々しかった。

 「勝田君」、じっと金子は銀次郎を見やっていた。
 銀次郎は、自分の事務所へ金子を招き入れた。
 
 「敗残の将じゃ」。

 金子にとっては、お家さんのため尽すための手足である、手塩をかけた数々
の事業を、油揚げをさらって行く鳶のように三井や三菱の大財閥にもぎ取られ
ていくのを、じっと耐えるよりほかない、という風であった。
 「時々、債権の整理をやっているあの事務所へ顔を出す。妻は里へ帰した。
今はその日暮らしみたいなものだ」。須磨・一の谷の異人館を金子は追い出
されていた。鈴木商店の財産であったため、台湾銀行に差し押さえを食った
のだ。
  
 「しかし、今は債権者とひざ詰めで話し合っている。鈴木には何らやまし
いところはない、と」。分厚いレンズの向こうの斜視気味のまなざしは鋭か
った。ようは資金の手当てさえできれば、事業は継続できたわけである。
金子の心中を察して、銀次郎は黙って見守ることしかできなかった。

 そんな銀次郎には、もうひとつ気がかりな企業があった。
 松方幸次郎率いる川崎造船所である。

 銀次郎は、大阪鉄工所に発注した大型船を売り逃げしなかったことで事業を
傾けたが、川崎も幸次郎のアイデアである標準船・ストックボートを作り続け、
挙句、系列の川崎汽船や、金子、銀次郎たち船主たちと国際汽船を設立して、
売れ残りのストックボートを運用する手立てをとるが、根本的な解決にはつな
がらない。

 川崎という巨船が、未曾有の「恐慌」という超大型台風に結果的に突っ込む
形勢となっていた。しかも関連の下請け工場など、鈴木商店以上に神戸経済と
密接に結びつく企業であるだけに、銀次郎には、その動向が気になって仕方が
なかった。                     (この項、つづく)                                


2009年8月9日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(64)

カテゴリー: - dr-franky @ 19時25分43秒

 どこかの元アイドル以上に「失踪状態」が続いて申し訳ありません
でした。
 スランプ気味へ持って来て(何せ西宮北口でねん挫はやらかすし)、
多忙気味、気づくと丸2か月以上更新が飛んでいたことに、改めて落胆。
 
 改めてがんばります。

 金子直吉が、東京ステーションホテルを根城に、政財界の要人を訪ね
まわって、懸命に震災手形損失補償公債法案の成立と、台湾銀行への融資
続行を懇願して回る日々が続いていた昭和2年(1927)3月、片岡大臣の国会
答弁中の失言で、東京渡辺銀行などの中小金融機関での取り付け騒ぎも起き
るなか、念願の法案が成立したが、附帯で第三者も構成員に加えた審査委員
会を設置することが条件となったことで、「いよいよ台湾銀行は危ない」と
の認識が、広く世間に行き渡ることとなってしまったのは皮肉であった。

 まっ先に、台湾銀行に短期融資をしていた三井銀行が、コールの引き上げを
台銀に通告した。その動きは瞬く間に他行にも波及して行った。
 資金繰りの源を立たれた形の台湾銀行に残された道は唯一つ。最大の貸付先
である鈴木に対する融資を打ち切ることに他ならなかった。

 3月26日、台湾銀行の幹部は、鈴木商店への融資を打ち切る旨、呼び寄せ
た鈴木商店の高畑誠一、鈴木岩次郎、永井幸太郎に通告した。
 万事休す。しかし高畑にも永井にも、来るべきものがきただけ、という思い
もあってか、却って無感動であった、という。
 金子は、鈴木の幹部社員に、台銀融資打ち切りについて緘口令を敷いた。た
とえ政府筋から、情報が漏れるのは時間の問題であることが分かっていたに
せよ。

 3月31日付けで、鈴木商店の経営陣が交代することが新聞で報じられ、別の
新聞が翌4月1日に、台湾銀行が追加融資を拒否したため、鈴木商店の経営が
行き詰っていることを伝えた。
 株式市場は、売り一色に染め上げられた。兵庫・本町に本店を置く第六十五
銀行では取り付け騒ぎが起き、混乱は続いた。

 ここに至って、事態を重くみた政府は、いわば最後の切り札である台湾銀行
への緊急融資策を枢密院に緊急提出したが、三井財閥と関係が深い、若槻内閣
の反対勢力・伊東巳代治(帝国憲法の起案に関与)が立ちまわって、「効き目
のない無駄金」と一蹴する形で、結果として枢密院は多数でこの提案を否決し
てしまった。
 面目丸潰れの若槻礼次郎は内閣総辞職に追い込まれた。 
 4月18日、台湾銀行は休店に追い込まれた。クラッシュ、恐慌状況は確定的と
なった。

よく、片岡直温の失言によって引き起こされた東京渡邊銀行の取り付け騒ぎ
をきっかけに昭和恐慌は始まったと、学校は歴史の時間に教えている。しかし、
正しくは、台湾銀行の、ひいては鈴木商店の救済への道を、愚かな政争で閉
ざしたことが、昭和恐慌の直接の原因となった、といわなくてはならないほど、
そのインパクトはあまりにも大きかった。

 金子は鈴木の中枢を追われた。           (この項つづく)


2009年5月23日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(63)

カテゴリー: - dr-franky @ 12時00分30秒

 大正天皇の崩御から一ヶ月余り。国会では震災手形損失善後処理法案
が審議されようとしていた。
 もともとは関東大震災の混乱で、決済が困難となった手形を救済する
ための法律だったが、期限の3年が目前になっても金融情勢は悪化する
ばかり。
 回収不能に陥っている手形に係る日本銀行への融通を行い、今後回収
の見込みありとされる手形の回収を進める、という内容。しかし、対象
の手形2億6千万円分のうちの約50%が台湾銀行関係とくれば、当然、
野党サイドから見れば「政商」鈴木が与党と結託した結果では、と映る。
世間も疑惑の視線を震災手形法案に注いでいた。
 
 国会での急先鋒は、鐘紡出身の武藤山治。クリーンさを身上に、代議
士に転じた武藤は、法案の問題点を追及。これに片岡直温大蔵大臣が猛
然と反論するなど論戦はエスカレートした。だが、武藤以外の野党は、
党利党略での駆け引きで与党側の足を引っ張った。その中で、厭が応に
も、台湾銀行の最大の取引先・鈴木商店の存在が浮き彫りにされる結果
となった。
 第一次世界大戦中、デンマーク向けのチャーター船が、こともあろう
に敵国独逸向けと朝日新聞に誤報されたことがあったが、事あるごとに
負のイメージでマスコミは鈴木商店を、これを庇護する格好の政府・与
党を攻撃した。世論も、この動きに乗った。

しかし、震災手形法が対象とする残りの半分は鈴木以外の企業の手形
なのだから、冷静に考えればこの法案の成立そのものは日本経済の立て
直しには不可欠なものであった。しかしこうした大局的な視点を、当時
の政党人は持ち合わせていなかった。

 昭和恐慌の導火線に火をつけたのは鈴木商店だったかもしれない。し
かし、燃え進む火を止めようとする「足」を引っ張ったのは、政党の無
益な争いとそれを囃し立てるマスコミ、そしてほかならぬ民衆であった
(情勢は異なれど、このことは今の政党政治とマスコミ、世論の関係に
通じるところがあると思うのは私だけだろうか)。
 
 カタストロフは、目前に迫ろうとしていた(この項、つづく)           


2009年4月12日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(62)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時07分04秒

当時、金子は、台湾長官以来の付き合いである後藤新平の伝を通じて、台
湾銀行から鈴木商店への融資を引き出していたが、その比重は増していった。
しかし台湾銀行の資本金の6倍強にあたる2億6千万円が対鈴木関係の融資
という状況にいたって、流石の台湾銀行も関係の見直しを考えなければならな
かった。
 台湾銀行は、高畑や永井ら鈴木の神戸高商卒のグループに近い社員を神戸
支店へ「鈴木の監視役」として送り込みながら、グループ企業を統括する持
株会社創設などを柱とする要求を金子に再三にわたって申し入れた。
 さしもの鈴木も、台湾銀行への利子の支払いが1日数万円−今日の価値に
直せば数千万円から1億円−にも達すれば、にっちもさっちも行かない。台湾
銀行の申し入れを、直吉は呑んだ。
 しかし、持ち株会社制の導入後も、結局は金利の支払いに借金を重ねる、
悪循環にはまり込んだ鈴木と、鈴木をつぶすわけにも行かず、貸し出しを続け
る台銀、という図式は変えることは出来なかった。
 
 台銀の預金残高の約6倍の貸出残高5億4千万円の7割が鈴木関係の融資、とい
う異常事態。台銀は、他銀行からの短期融資(コール)で固定化した鈴木関係
の貸付金の穴埋めをするという綱渡りを演じていた。しかし、大正15年11月に、
鈴木系の日本製粉と、日清製粉の合併協議がご破算になったことにより、鈴木
とメインバンクの台湾銀行の経営状況に対する世間の見る目はいっそう厳しく
なった。
 経営難の日本製粉を、日清側が拒否した格好だが、日粉を存続させるため、
金子はさらに日本銀行、大蔵省詣を重ね追加融資を求めた。
 大正天皇が病の床に伏せている、という当時の情勢も味方した。日本製粉の
ための1千5百万円の融資が認められた。
 だがこれは、例えて言えば、多臓器不全に陥って瀕死の状態の鈴木に、人工
心肺が取り付けられた、という程度のことであった。
 
 破綻は、刻一刻と迫りつつあった。           (この項つづく) 


2009年3月5日(木曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(61)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時11分29秒

うかうかしているうちに御雛祭りも済んでしまった。1ヶ月更新のペースを
挙げて生きたい今日この頃である。

1926年、大正が終わりを告げ元号が昭和に改まった。
銀次郎は事業の整理を進めながらも、市会議員、あるいは海運業界の重鎮
として多忙な日々を過ごしていた。
 その銀次郎にとって気がかりなことがあった。鈴木商店の経営問題である。

 大正7年に焼き討ちに遭った鈴木商店は、その後も海岸通に本社事務所を
移転させて、三国間貿易などを盛んに展開するなど、ロンドン駐在の高畑誠
一(神戸高等商業学校卒)ら学卒者の活躍で三井物産に比肩する総合商社
の様相を呈していた。
 だが、そうした商社活動での「あがり」は、部類の事業狂・金子直吉が、「国
益のため」と手をつけた「ベンチャー」産業の資金に充てられた。
 鈴木商店の取扱商品である樟脳を原料とするセルロイド(大日本セルロイド)
に投資し、資金難で経営に行き詰まった小林製鋼所を買収して神戸製鋼所と
し、さらには第1次大戦の船不足を見越して、播磨造船所の創設にも参画する。
 一方で製糖事業やビール事業を門司で起業する・・・。「煙突男」の異名をとっ
た金子の勢いはとどまるところを知らなかった。
 しかし、事業に投資しても、新技術の国産化などの「金喰い虫」。ベンチャー
だけに収益を上げるまでに至らないことが多いのも事実。それは資金の固定化
を意味していた。
 いっぽう、金子は、「銀行は店を占める日曜日にも利息をつける」と金融機関
をけなしていた。「お家さん(鈴木よね)のため、お国のため」という金子の「滅私
奉公」の信念から、鈴木商店には休日はなかった。
 そんな金子からすれば、銀行という存在は理解しがたいものがあったらしい。
 しかし、総合商社と化学、製鉄、食品という部門を抱える鈴木商店は、いま
だ合資会社。高畑たち学卒者は、株式公開による資金調達など経営の近代
化を、支配人の西川政蔵を通じて金子に迫るが、自分の戦略の手の内を「暴
露」する結果となる株式会社化の構想を、金子は一蹴した。
 しかし、大戦後の不況の中で、さしもの鈴木商店の勢いにも陰りが見えてき
た。商社部門の収益が減少傾向に転じる至り鈴木商店の資金繰りは次第に
苦しくなっていたのだ。
 しかも、海外に散る学卒者と、金子をつないでいた支配人・西川政蔵が心労
がたたって急逝してしまう。金子に直言できる人材が本店からいなくなったのも
事態を悪くさせた。                  (この項、つづく)


2009年1月31日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(60)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時59分14秒

1月もあっという間に去って行こうとしている。あんぐりとするわけ
にもいかない。

 裸一貫に戻ったとはいえ、公人としての銀次郎は相変わらず多忙で
あった。
 新開地の聚楽館で地元新聞社主催の青年による模擬国会が開催され
ることになった。おりしも普通選挙を求める運動が広がりを見せてい
る頃の話である。主催者は銀次郎を総理大臣役に指名。鷹揚に銀次郎
はこれを受諾した。
 
 いささか左傾化した青年代議士役たちは、熱を入れて政府側を追求
する。これに外務大臣役の藤原米造が剥きになって反論を始めた。し
かし敵も然るもの。次々と材料を示しながら追求の手を緩めない。
 ついに藤原は壇上でおいおい泣き出す始末。

 青年代議士達は、首班役の銀次郎にも挑発するのように、演説に立
つ銀次郎に野次を浴びせたり、ひどくなると罵倒をする者まで現れた。
 しかし銀次郎「総理大臣」、平然と政見を述べ、時には微笑まで浮
かべて答弁をする。その捌きは見事であった。
 休憩時間、控室に戻った内閣一同を、新聞社の阪本部長が平謝りで
出迎えた。
 「いや、模擬国会とは申せ、あまりの青年達の昂揚ぶり、御気を悪
くなさらず、ご辛抱ください」。
 「いやいや、阪本部長」。銀次郎は笑った。「若い者は、あれぐら
い威勢が良くなくては駄目ですよ」。泰然とした風に、阪本は「なん
と剛毅な方なのだろう」と痛く感じ入り、と同時に「癇癪を炸裂させ
て帰られてしまうのではないか」という杞憂も吹き飛んで、胸をなで
おろした。

 当時は、揉めにもめて普通選挙法が第五十回帝国議会で漸く成立した
ばかり。それも悪名高きあの治安維持法と抱き合わせでの施行である。
 それでも、施行前よりも有権者が4倍に増えた、という前進である。

 満足そうに会場の聚楽館を後にした銀次郎を、国政の舞台へと押し
上げる運命の歯車は、この神戸の片隅で動きだしつつあった。しかし
そのことを銀次郎は知る由もなかった。(この項、つづく)。


2008年12月31日(水曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(59)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時45分00秒

 大正15年になっても、海運業界の景気は神戸港深くに突き刺さった錨
のように浮揚する気配は微塵もなかった。
 汽船会社では、過剰船腹の人員削減は一周し、残った社員達にも、給料
の遅配は日常茶飯事になりつつあり、ひどい場合は何ヶ月もただ働きか、
という事態も会社によっては起こっていた。
 勝田汽船も例外ではなかった。銀次郎の人柄を信じている社員達といえ
ども、仏の顔をも三度まで、これは・・・という状況になりつつあった。

 このとき乗り出してきたのは、日本海員組合だった。労使交渉を持とう
と組合側は申し出てきた。双方にわかにきな臭い雰囲気が出てきた。

 労使交渉の日、組合の幹部達は勝田汽船本社に乗り込み、会議室に陣取
った。汽船の社員代表らと海員組合の幹部・濱田国太郎が最前列に陣取っ
た。ここまできたら徹底抗戦、ピケだって辞さない、という気構えが一同
にみなぎった。

 どれほど時間がたっただろうか、ようやく会議室の扉が開いた。会社の
幹部が入ってくる、と皆身構えた。
 と、入ってきたのは銀次郎社長、その人であった。

 銀次郎は交渉団と向かい合った。
 「今日は、私どもとしても不退転の覚悟でこの場に臨んでいる。心して
おいていただきたい。」濱田が口火を切った。「会社としての返事を伺い
たい」。

 銀次郎は、昂ぶることなく、静かに、しかししっかりとした調子で応え
た。
「会社のため奮闘している諸君らに対する、これまでの、度重なる給料の
遅配、欠配については、ひとえに経営者である私の不徳のいたすところで
ある。お詫びしたい。」「今日は私もある覚悟をしてここへやって来た。
これまでの未払いの賃金、そして今後の当座の賃金の支払いのめどをつけ
ることが出来た。」

「おおっ」一同がどよめいた。「このあと会計担当者から、個別に未払い
分を渡す。安心されたい」
 銀次郎は一同を見渡し、そして庶務課長と入れ替わるようにして会議室
を後にした。

 その数日後、銀次郎は、あれほどまでに愛着を持っていた青谷の邸宅を
引き払い、その門前、上野通7丁目の一軒の小住宅に移った。

 これが新聞に報じられるに及んで、世間はあっと驚いた。一夜にして、
御殿住まいの今太閤から(今の基準で考えればそれなりの家だとは思うが)
わび住いに逼塞した銀次郎の「転身」ぶりに。
 銀次郎は、取引銀行の支店長に相談して、家屋敷から家財にいたるまで
抵当に入れて、社員への支払いの資金を文字通りひねり出したのだった。

 銀次郎の死後、当時のことを述懐して濱田は、銀次郎をこう評した。
 
「彼は人を愛することに徹しきった、彼の眼中には財宝も地位も名誉もな
かった。
 彼は「垢抜けのしたバカ」であった。底抜けのバカの多い世の中に、明
確な愛という根拠をもって、これに徹底したバカ振りは実に敬服のほかは
ない」(「得山翁小偲録」より)。

(ライターより年末のごあいさつ)
 連載開始から1年余り経て、生い立ちから青谷御殿へといたる銀次郎の
半生は、今日を持ってひとまず終わることとなる。ここ3ヶ月は月1回更
新となってしまい、読者の皆様にご迷惑をおかけしました。

 年明けからは、「上野通クミン」となった銀次郎の後半生を描く第2部
ともいえるセクションに移っていくことになる。皆様、どうかよろしくお
願いします。がんばって書きます。

それでは、どん詰まりですが良い年をお迎えください。

  


2008年11月30日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(58)

カテゴリー: - dr-franky @ 08時01分37秒

 しばしの沈黙の後、儀作は銀次郎の顔を見、それから有吉会頭に
向き直ってこう答えた。「承知しました。私どもで引き受けさせて
いただきとう存じます」。
 突然の儀作の申し出に、さしもの銀次郎も驚いたが、有吉会頭は
予想もしない事のなりゆきに、一瞬あっけにとられたようだったが、
すぐに「それは非常にありがたい。ぜひ、よろしくお願いする」
と受け入れた。

 儀作は、この2ヶ月間というもの、この「馬なし車」の威力に惚
れ込んでいたのかもしれない。思い切って自分の会社・東洋燐寸に
社用車を導入しようと考えていたのかもしれない。いずれにせよ、
数ヵ月後、上沢通の東洋燐寸本社に、25台の車が運び込まれるこ
とになったのである。

 戦後にいたって、滝川家はトヨタ自動車販売から、兵庫県におけ
るトヨタ車の販売代理権を取得して、兵庫トヨタ株式会社の経営に
乗り出すことになるのだが、このときの儀作には当然のことながら
知る由もない。しかし、自動車販売という分野に乗り出す素地は、
すでにこのとき儀作の中に出来上がっていたと見るべきだろう。
 
 神戸に戻った銀次郎、相変わらず港には不景気風が吹いていた。
 金策も困難さが常に付きまとっていた。

 ある月の美しい夜、銀次郎は久しぶりに、青谷の邸で、芳夫人と
すごしていた。月光に照らされた大阪湾が真珠の海のようにも思え
る。

 思えば、神戸で店を開いてからしばらくして、仕事の接待で行っ
た花隈の宴席で見初めたのがきっかけだった。
 それから20年あまり、苦労も喜びも分かち合ってきた芳。以心
伝心ということばあるが、銀次郎はある決意を伝えなくては、と考
えていた。

「なあ、芳」、銀次郎は傍らの芳に静かに語りかけた。
「わしは、自分のためでもあり、お前のために、この家の普請をや
った。しかし、船(海運)の調子は一向に良くならぬ。苦労をかけ
ている社員達にも、ややもすれば給料を払えぬか、というときもあ
る。
 そうしたなか、この家でぬくぬくと過ごしていてよいもんか、と
思うようになった。
 芳、いずれ、この家を引き払うときがやってると思う。済まぬが
覚悟をしておいて呉れ」

 芳は、黙ってうなずいた。そして「あなたがお建てになった御家
です。出ようとあなたがお決めになったら、それに従うまでのこと。
 夢のようなひと時を、すごさせてもらっただけで、私には十分で
ございます。」と答えた。

 2階の縁にたたずむ2人を蒼い光が照らしていた。

                    (この項、つづく)


2008年10月26日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(57)

カテゴリー: - dr-franky @ 09時24分53秒

気がつくと、平成20年の世の中は10月も終わろうとしているのであった。
10月は土曜日にステアリングを握って遠出する週末が続いたので、つい金曜
日の夜なべを避けてしまいがちだった。

読者の皆様、筆者の筆不精をどうかご容赦願いたい。

震災直後は、デマに踊らされた自警団によって朝鮮半島出身者が虐殺されたり
あるいは憲兵隊の甘粕中尉が大杉栄一家を惨殺するという陰惨な出来事が起こ
った被災地であった。が、秋風が吹く頃にもなると、ようやく京浜の地でも日常
を取り戻そうとする動きが人々の間で本格的になってきた。

 神戸からの救援物資の配給に没頭していた儀作と銀次郎も、そろそろ区切り
をつけるとき、と悟った。残務整理に取り掛かって、関係先への挨拶廻りをは
じめた。
 儀作は、現地入りしてまもなく、一台の自動車を用立てた。物資配給に使う
ためで、荷が到着する芝浦と市中の交通にフル稼働させた。しかし、震災で悪
路と化した市中の道に、さしもの「馬なし車」も足回りがだめになってしまっ
た。儀作は求められれば誰かれとなく自動車に便乗をさせたのことも、車の酷
使に拍車をかけたかもしれない。

 「しかし大したものだ。この自動車も、よう働くのう」銀次郎が感心したよ
うにつぶやく。
 銀次郎と儀作は自動車で横浜へ向かっていた。2人を乗せた2台目になるこ
の車も、そろそろ足回りから不吉な騒音が聞こえ始めている。
 
 横浜商工会議所の仮事務所へ出向いた。会頭の有吉忠一が出迎えた。有吉は
元兵庫県知事。2人とは旧知の仲である。「いや、皆さんの奮闘振りに、われ
われもどれほど助けられたことか」。無償で立ち働いた2人を、有吉会頭は労
った。
 「ところで」有吉会頭は少し目を伏せがちに切り出した。「実は震災の起こ
る少し前に、アメリカから横浜港に自動車が25台届いたのだが、震災で買主
が亡くなってしまって行き場を失っているのです。どなたか、引き取ってくだ
さるような方の心当たりはないですか。」       (この項、つづく) 

 


2008年9月29日(月曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(56)

カテゴリー: - dr-franky @ 01時48分00秒

 東京に入った滝川儀作、そして銀次郎達には、上海丸を始めとして
到着する救援船の物資の分配を行う、という新たな仕事が待っていた。
 震災でほとんど被害を受けなかった内幸町の日本興業銀行の一部屋を
銀次郎たちは借り受けた。計画・意匠を渡辺節、そして構造を内藤多仲
というコンビで手がけた第2作である。その第1作は神戸・海岸通の大
阪商船ビルなのだが、そんなことは今の銀次郎たちにはどうでも良い話
だった。
 部屋に篭って、入電してくる救援物資のリストをもとに、東京市や
神奈川県庁とも連絡を取り合いながら、儀作と銀次郎は額をつき合わせ
て、配分計画を立て、ついで港から物資の配給場所への運送の手配を整
える。そうした日々が結果として2ヶ月近く続くことになる。
 
 そんな仕事の手があいたある日、銀次郎は、思い立って青山の地を
訪ねた。すこしづつ掘っ立て小屋が建ちつつある青山の街角を銀次郎は
歩いた。ある意味、かつて自分が通学していた頃の風景に戻っているの
ことに、不思議な感覚を禁じえない銀次郎であった。
 
 銀次郎は校門の前に立った。
 勝田館は、一部の壁を残してすっかり瓦礫の山となっていた。他に
あったはずの校舎も大半は姿を消していた。

 こちらは屋根瓦がずれただけで残った学院長館に、高木院長を訪ねた。
 「これはこれは、勝田さん」失われた学園の復興に奔走している高木
院長だったが、突然の銀次郎の来訪に驚きつつも、席を薦めた。
 「高木院長、私は非常に申し訳のないことをしました。もう少し、設
計のときに地震への備えを指図しておけば、と悔やまれます。」
 高木院長は、「いいえ、あの揺れでは、こうなってしまったのもやむ
をえないと・・・」と当日の様子を伝えた。

 「学院の復興に何らかのお役に立ちたいのはやまやまですが、いまや
債権者に首根っこを押さえられている身、面目ない」。
 「いや、こうして立ち寄っていただいたことだけで、私たちにはもう」

 高木院長は、遠ざかる銀次郎の影が見えなくなるまで校門で見送った。
 
 宿舎への道すがら、銀次郎は思った。「形あるものもいつかは壊れる
ときも来る。儚いものじゃ」。そして、自分の会社のことも、時期が来
れば整理をしなくてはならないだろう、と覚悟を決めた。それに今住ん
でいる青谷の屋敷も、いつかは明け渡さなくてはならない時が来るとい
うことも。                  (この項 つづく)


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