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2008年4月26日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(41)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時04分21秒

 神主の祝詞が終わって、銀次郎は、芳と一緒に餅をまいた。
 青谷の高台からは、遠く紀州は友ヶ島まで見渡せた。

 銀次郎は、今日始めて新邸の現場の土を踏む芳や、義理の母みつ
姪子らをつれて、新邸の敷地を「ここが隠居で、そこらあたりがふ
たりの部屋ができる」と、大まかなプランを示しながら歩いて廻った。
 芳もみつも、今住んでいる生田町の家とは比較にならない、壮大な
スケールに、目を見張った。
 
 棟上式が終わり、おおよその建物の規模が明らかになると、銀次郎
の新邸は、忽ち巷の注目の的となった。
 中には、銀次郎と静夫人に子供が無いことを挙げて、「夫婦2人だ
けの住まいとしては贅沢すぎるのではないか」また、「本業の海運が
不景気である中で無謀な企みだ」となどと、銀次郎は謗りを受けた。
 だが、銀次郎は「しみったられたことを言うな、今日一億の富があ
っても、明日の素寒貧を忘れるわけにはいかない。そのとき、貧弱な
小屋掛けでは役に立たない。こうしておけば神戸市に寄付しても、一
かどの役に立つ。ケチケチして金を残して、どうしようというのか」
と反論した。
 密かに持ち船を売りさばく内田や山下のことを意識していたのか、
大戦末期の新造船といい、この新邸といい、道楽と言えば道楽だが、
「我が国の海運界のため」「神戸のまちのため」という理由で「散
財」する銀次郎の行動基準は、ある意味、成金と言う尺度では図りき
れないものがあった、といえよう。

 しかし、厳しい現実は容赦なく、神戸を始めとする汽船業界を覆い
始めていたのである。           (この項、つづく) 


2008年4月19日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(40)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時11分41秒

 材木は・・・、詳しい話は伝わっていないが、恐らくは平太郎監督
の繋がりで、彼の郷里・吉野から運ばれた材が用いられたのであろう。
同じ武田先生の手になる煙草王・村井吉兵衛の東京・山王台の邸宅は、
台湾檜を用いたなどという伝承が残っているのに比べれば、地味なと
ころではある。
しかし、銀次郎の意を汲んで、杉、檜の良材が金に糸目をつけずに
集められたことは想像に難しくない。

 敷地の整地はプランが決まった段階で先行して始まっていた。その
費用−十三万七千円−は、銀次郎の会社の東京支店ビルの建設費用が
ゆうに賄えるものであった。金田組は何時にも増して慎重に丁寧に工
事を進めた。
 工事が本格化するにつれて、人々の噂に、銀次郎の新邸の話題がの
ぼる様になってきた。
 「新造船の次は、千畳敷の御殿だそうな」「内田といい山下といい
豪勢な普請だったから、勝田も通り一遍のものを建てる訳にはいくま
いなぁ」。「それにしても、よっぽど戦争中の景気でしっかり貯め込
んでいたのだろうな」
 その頃、神戸港の沖合いには、ぼちぼち出港のあてのない商船が艀
に係留されて船腹を晒す光景が広がりつつあった・・・。

 大正8年8月21日。銀次郎は芳夫人や親戚の者たちとともに、青
谷の新邸建築の現場に在った。そう、今日は上棟式なのだ。
 木の香りが満ちた新邸の一角で、銀次郎たちは恭しく頭を垂れた。
 金田組の当主・辰之助や先代の兼吉、大工肝煎の常吉をはじめ、大
勢の職人達も立ち会った。
 上棟式での銀次郎と一族

                     (この項つづく)


2008年4月12日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(39)

カテゴリー: - dr-franky @ 21時54分55秒

 海運業の行く手には暗雲が立ち込めていたが、「男は一旦した約束は守るもの」
という銀次郎の美学から、青谷の新邸の計画は予定通り進められた。

 銀次郎と平太郎は膝詰めで図面を挟んで、議論を重ねた。
 神戸には、県庁の北側に小寺泰次郎・謙吉父子が築き上げた屋敷があった。高い
塀で囲われた内部には回遊式の庭園を見渡せるよう、入母屋造の二階建ての館が敷
地の中で一番高い場所に建てられていた。

 布引の川崎邸には、先代の正蔵が、蒐集した美術品を飾る美術館「長春閣」を建
て、明石郡の寺から仏塔を移築していた。正蔵の後継者・芳太郎は、正蔵の建てた
屋敷に加えて、辰野先生の弟子・山田醇に委ねて殿舎式の和館を敷地内に新築して
いた。

 銀次郎としては、そうした先行する和館とは一味違った雰囲気のある建物に仕上
げたいと言う欲望があった。
 そうした意向を受けて、平太郎は、数奇屋を基本に置きつつも、武田先生直伝の
今様の欧州の「セセシオン」のセンスもまぶしながら、図面を描きおこしていった。
それは、建具、床の間の意匠から室内の敷物や風呂場のタイルにまで及んだ・・・。
 議論は、敷地の整地にも及んだ。秋の紅葉の時期には、客殿から、その有様を借
景に眺められるように、とか、大阪湾が見渡せるよう、庭は従前の地形を生かして
なだらかな斜面に作る・・・。
 
 銀次郎、平太郎、お互いにとって最善の図面が出来上がった。
 新邸の新築工事は大正8年の春に始まった。
 平太郎は、勝田汽船の嘱託という形をとって、神戸に腰をすえて銀次郎の新邸の
実施設計と現場監理の仕事に携わることとなった。  (この項つづく) 

 
  
 


2008年4月5日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(38)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時48分57秒

 世界大戦の開戦以来の日本国内のインフレーションは衰えなかった。しかし
ベルサイユ講和会議が終わり、欧州の戦後処理が動き始めた大正8年ごろには、
不定期便の船価は戦中のような勢いはなくなった。
 
 そうした状況をみこしていたのかどうか、成金三羽カラスは海運業以外の他業
種にも手を染めていた。
山下亀三郎は、自社の石炭部門を独立させて、北海道の奔別炭鉱を買収し採掘
を進めた(後に住友に売却する)。また渋沢栄一らとともに扶桑海上保険の設立
にも関与した(後の住友海上火災、現在の三井海上の前身企業である)。扶桑海
上は、「事業の公益性を鑑み」、山下は役員には就任せず、経営を三菱や住友の
出身者に委ねていた。
 
 一番旺盛だったのは内田信也である。内田汽船を設立して間もない大正6年に
貿易事業のために内田商事を設立。また佐賀県有田に帝国窯業、横浜に内田造船
所を作った。内田商事が扱ったのが、昇降機、エレベーターだった。内田商事が
出来た大正6年当時、まだまだ日本には高層建築は少なかったが、内田がシカゴ
の摩天楼建築を見聞していたのかどうかわからないが、来る時代に備えて、アメ
リカのエレベーター会社と契約を結んだのだった。

 銀次郎も、海洋工事を手がける勝田埋築という会社を作ってはいた。しかし、
三井物産出身の石田貞二らが設立した太洋海運の相談役を引き受けるなど、海運
業に並々ならぬ情熱を燃やす銀次郎であった。
 
 そんな銀次郎に、人を介してある依頼がもたらされた。
 革命後のウラジオストックに、革命を逃れた婦女子がアメリカ赤十字社の保護
の下で滞在していた。しかし「避難生活」も3年となり、彼女らをフィンランド
へ送還しよう、と言うことになった。物の運送は手間が掛からないが、人は面倒
である。アメリカ赤十字社は日本の海運業界に、婦女子の送還業務を打診してき
たのだ。
 銀次郎は、持ち船「陽明丸」に、客室装備、その他、人員輸送に必要な儀装を
施すとウラジオストックに差し向けた。3カ月がかりでパナマ運河経由で900
人をフィンランドのヘルシングホルス港へ送り届けた。
 今度はドイツの赤十字社が、自国とオーストリアの捕虜の輸送を依頼してきた。
 そうした儲けにならない仕事でも銀次郎は引き受けた。  (この項つづく)


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