神主の祝詞が終わって、銀次郎は、芳と一緒に餅をまいた。
青谷の高台からは、遠く紀州は友ヶ島まで見渡せた。
銀次郎は、今日始めて新邸の現場の土を踏む芳や、義理の母みつ
姪子らをつれて、新邸の敷地を「ここが隠居で、そこらあたりがふ
たりの部屋ができる」と、大まかなプランを示しながら歩いて廻った。
芳もみつも、今住んでいる生田町の家とは比較にならない、壮大な
スケールに、目を見張った。
棟上式が終わり、おおよその建物の規模が明らかになると、銀次郎
の新邸は、忽ち巷の注目の的となった。
中には、銀次郎と静夫人に子供が無いことを挙げて、「夫婦2人だ
けの住まいとしては贅沢すぎるのではないか」また、「本業の海運が
不景気である中で無謀な企みだ」となどと、銀次郎は謗りを受けた。
だが、銀次郎は「しみったられたことを言うな、今日一億の富があ
っても、明日の素寒貧を忘れるわけにはいかない。そのとき、貧弱な
小屋掛けでは役に立たない。こうしておけば神戸市に寄付しても、一
かどの役に立つ。ケチケチして金を残して、どうしようというのか」
と反論した。
密かに持ち船を売りさばく内田や山下のことを意識していたのか、
大戦末期の新造船といい、この新邸といい、道楽と言えば道楽だが、
「我が国の海運界のため」「神戸のまちのため」という理由で「散
財」する銀次郎の行動基準は、ある意味、成金と言う尺度では図りき
れないものがあった、といえよう。
しかし、厳しい現実は容赦なく、神戸を始めとする汽船業界を覆い
始めていたのである。 (この項、つづく)