海運業の行く手には暗雲が立ち込めていたが、「男は一旦した約束は守るもの」
という銀次郎の美学から、青谷の新邸の計画は予定通り進められた。
銀次郎と平太郎は膝詰めで図面を挟んで、議論を重ねた。
神戸には、県庁の北側に小寺泰次郎・謙吉父子が築き上げた屋敷があった。高い
塀で囲われた内部には回遊式の庭園を見渡せるよう、入母屋造の二階建ての館が敷
地の中で一番高い場所に建てられていた。
布引の川崎邸には、先代の正蔵が、蒐集した美術品を飾る美術館「長春閣」を建
て、明石郡の寺から仏塔を移築していた。正蔵の後継者・芳太郎は、正蔵の建てた
屋敷に加えて、辰野先生の弟子・山田醇に委ねて殿舎式の和館を敷地内に新築して
いた。
銀次郎としては、そうした先行する和館とは一味違った雰囲気のある建物に仕上
げたいと言う欲望があった。
そうした意向を受けて、平太郎は、数奇屋を基本に置きつつも、武田先生直伝の
今様の欧州の「セセシオン」のセンスもまぶしながら、図面を描きおこしていった。
それは、建具、床の間の意匠から室内の敷物や風呂場のタイルにまで及んだ・・・。
議論は、敷地の整地にも及んだ。秋の紅葉の時期には、客殿から、その有様を借
景に眺められるように、とか、大阪湾が見渡せるよう、庭は従前の地形を生かして
なだらかな斜面に作る・・・。
銀次郎、平太郎、お互いにとって最善の図面が出来上がった。
新邸の新築工事は大正8年の春に始まった。
平太郎は、勝田汽船の嘱託という形をとって、神戸に腰をすえて銀次郎の新邸の
実施設計と現場監理の仕事に携わることとなった。 (この項つづく)


