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2007年5月31日(木曜日)

第一夜 町カクテル「西灘」をオーダーする(その1)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 善治郎は、棟梁の儀久を呼び寄せた。

「私は」善治郎は口を開いた。「隠棲のための棲家を建てるときが来たと
悟った」。
 「しかし」言葉を継いで、「こじんまりとしたものは建てようとは思って
おらん」。
 儀久はじっと善治郎と向かい合った。儀久は口数の多い方ではない。しか
し、長い付き合いの中で、善治郎の好みに通じていた。

 善治郎は自分の思いを申し述べた。自分も糸子も歳をとってから立ったり
座ったりがおっくうになってきた。基本は椅子式の住まいである。外観も概
ね洋風を基調に考える。
 青春時代を過ごした亜米利加の西海岸側では、白漆喰の大壁に赤い丸瓦を
葺いた西班牙風の邸宅が流行っていた。神戸にも塩屋にイギリス人が建てた
のやら、幾つか実例がある。そういったものを参考にしてほしい。
 それから、やはり港が見渡せる塔が是非欲しい。
 
 「承知しました」。儀久は、頭の中で善治郎の新邸の構想図を仕上げつつ
あった・・・。
 
 二人の会談からしばらくして、阪神急行電鉄の真新しい高架橋が家並みの
上に、まるで万里の長城のように抜け出た原田通の一角に、この鉄筋混擬土
の城壁を越えるような大きな足場が組まれていた。

人々は、驚きながらこの足場を眺めて囁きあった。
 「何でも亜米利加帰りのお大尽の隠居所やそうな・・・」
                     (この項、とりあえず続く)


2007年5月24日(木曜日)

第一夜 汽笛亭にたどり着く

カテゴリー: - dr-franky @ 00時04分14秒

 数日後、筑前飯塚から私宛に一つの書籍小包が届けられた。

 仕事先から帰宅した私は、とるもとりあえず、封を切った。
 ビニール袋に丁寧に包装された其の本は、B六版と、思いの外
こじんまりとしたサイズだった。
 「赤尾善治郎傳」と布装に金文字が打たれている。私は、ビニ
ールの包装を止めているセロハンテープをはがした。
手に取ると、戦時中の発行ながら本文の紙質も思っていたより
も良かった。奥付を見ると昭和十七年九月の発行で、沼津市在住
の服部純雄という人物が執筆している。
 服部氏は、赤尾氏の親類で、広島で永らく中等学校の教壇に立
っていた人物らしい。そのせいか、本の内容は偉人伝にありがち
な成功譚に加えて、道徳の教本みたいな説教めいた話もあった。
 しかし、しかし、赤尾善治郎については、赤松啓介が「神戸財
界開拓者伝」(太陽出版、昭和55年)で評伝を記しているが、神
戸商工会議所の会員向け通信の連載記事がベースだけに記述に物
足りなさを感じるのも事実。そうした中で、この評伝は赤尾善治
郎の足跡をもうすこし詳しくたどるために欠かせない貴重な資料
に違いなかった。
 付け加えるならば、建築探偵の目を釘付けにする、歴史的ショ
ットが収められていたことで、私は「元を取った!」と思い、納
得したのだった。            (この項つづく)


2007年5月20日(日曜日)

第一夜  エルナードの石畳に寝っ転がる

カテゴリー: - dr-franky @ 22時14分59秒

 昭和8(1933)年、善治郎が建設費を寄付した安茂里の小学校の新校舎
が完成を見た。階数は二階建てだが建坪三百六十坪の規模を誇った。当時、
長野県下で、鉄筋コンクリート造構造の校舎を有する小学校は、他に無か
った。 
 新校舎は、善治郎の姓名の一字を取って「赤心館」と命名された。

 村人は、善治郎の行いを永年に伝えるため、善治郎の胸像を校庭に建立
することを申し出た。善治郎はこれを辞退しようとしたが、最終的には、
銅像台座の碑文を、今や代議士をつとめあげた旧友・梅四郎が撰文して、
こちらも無事序幕の運びとなった。

 善治郎は、また経済的に困窮する多くの苦学生にも支援の手を差し伸べ
た。こうした善治郎の篤志は、野良仕事の手伝いや、行商の合間を縫って
苦心して小学校を了えた自身の経験がその根源にあったのは言うまでもな
いことだろう。

 ある日、布引の家で、神戸の港を見下ろしながら善治郎は考えていた。
 私も、七十歳を超えた。息子の英太も立派に会社の経営に辣腕を振るっ
ている。そろそろ第一線から身を引く時が来たもしれない。
 会社の事務所をかねている布引の家を英太に譲り、私は違う地所へ移っ
たほうが良いかもしれない・・・。
 善治郎は、その思いを妻の糸子に伝えた。糸子は、善治郎の考えに賛同
した。以前、善治郎は西灘の阪急電車の上筒井終点に近い一画に土地を買
っていた。西灘の耕地整理もひと段落着いているので、あの場所ならいい
のではないか・・・。善治郎は、徐々に自分の老後の住まいを構想するよ
うになっていった。               (この項つづく)
 


2007年5月10日(木曜日)

第一夜 台北ビルの階段で滑る

カテゴリー: - dr-franky @ 23時55分36秒

 K医博夫妻の話を総合すると、「原田のジェームス邸」の成り立ちは、
 「亜米利加で成功したアカオなる人物が、功成し遂げて引退後の住まい
として建築したものである」ということであった。
 その後、空襲で壁だけを残して焼け落ちたところを、K医博の義父が引
き受けて、数年がかりで修復して、今日見るような姿に仕上げたというこ
とである。館の北側にある診療所の建物は戦後に、K医博が開業する際に
建てたものである。

 「ですから、今でも空襲で焼けた時の痕が内壁に一部残っています。」
 「昔は、周りに高い建物もなくて、港の打ち上げ花火を屋上のテラスで
楽しむことが年中行事でした」とK医博は懐かしそうに語った。
 K夫人は、「修復している時は、棟梁が一人、かかりきりで仕事をして
いました。板を張り合わせるのに、糊が手に入らなくて、いろいろ工夫を
していたのを覚えています」。

 お二人の話で、積年の幾つかの疑問が解けた。塔屋の、いささか釣り合
いの悪い金属製のドーム屋根も、戦後の修復時の物である事がはっきりし
たし、今は駐車場に取り残されている年代物の石製門柱も、戦後に他所か
ら移してきたものであることも・・・。なにより、施主Xが「アカオ」氏という
ことが判ったのが大きかった。

 家に帰って、私は大倉山の図書館で取って来た「日本紳士録 昭和十年
版」のコピーの「ア」の部を繰ってみた。
 「赤尾善治郎 赤尾商会(株)社長」という文字が目に飛び込んだ。
 しかし、住所は「生田区布引町二」であった。
 私はインターネットの検索エンジンで、試しに「赤尾善治郎」と入力し
て調べてみた。項目は少なかったが、長野県の「安茂里小学校」に「赤心
館」という校舎を寄贈していて、顕彰碑が建てられている、ということが
判った。
 こんどは、東京の古書籍商組合がやっているインターネットの古本屋の
サイトで「赤尾善治郎」を検索してみた。すると「赤尾善治郎伝」という
昭和十七年刊の本を福岡県の古書店が在庫していることがわかった。
 
 私は一か八かで、「赤尾善治郎伝」を「買い物カゴ」に入れ、注文手続
きに移った。                  (この項つづく)
  


2007年5月3日(木曜日)

第一夜 星屑を見上げながら「追憶」を歌う

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 昭和7年の春、善治郎は糸子夫人と共に墓参のため郷里の安茂里村
に在った。
 長い不況にあえぐのは、この信州の山村もまた同じであった。
 善治郎は、思い出多い小学校の前を通りかかった。もちろん、善治
郎が学んでいたのは六十余年も前のことなので、校内の様子は変わっ
てはいた。しかし善治郎は驚いた。たしかに自分が学んでいた時も、
建物は立派とはいい難いところがあった。しかし、目の前にあるのは、
柱の根元は朽ち、屋根は所々痛んだ草臥れきった老朽校舎だった。
 神戸の町には、大正時代から鉄筋コンクリート造の学校建築が建ち
始めて、旧市街地の小学校では鉄筋化が終わろうとしていた。それな
のに、わが故郷は・・・。
 善治郎は塚田村長と面談した。村長も小学校校舎の改修の必要性は
勿論認識していたが、村の財政は最低限の補修すら許さない状況に追
い込まれている、とため息をついた。
 
 善治郎は、塚田村長にこう申し出た。
 「ここは一つ、私に小学校の改築費用全額を寄付させていただきた
い。それも同じやるなら鉄筋コンクリート造で」。
 村長はあっけにとられた。いや仰天した、といったほうが正しいか
ったかもしれない。木造建築であれ何であれ、学校建築の新築には莫
大な費用が必要である。それを、鉄筋コンクリート造などという、長
野や松本の中等学校に建つかどうかという極めて高価な建物で新築す
る、というのだから。
 しかし、塚田村長は、嬉々として善治郎の篤志に応えるために、全
力を尽くすことを善治郎に約束した。
 すぐさま臨時の村議会が召集され、村役場の会計への寄付の受け入
れと小学校改築の議案が付託され、それらは満場一致をもって可決を
されたのだった。               (この項つづく)


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