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2007年11月23日(金曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(21)

カテゴリー: - dr-franky @ 01時11分52秒

 また「新規の投稿」が遅配になってしまい、毎回お読みいただい
ている読者の皆様には大変申し訳なく思っている。
 井上ひさしになりきらないうちに、さっさと筆を進めたい(と思っ
たら打ち上げかけた原稿が上手く保存できなかった・・・。とほほ)

 明治45年7月30日、夏の盛りの時だった。睦仁天皇が崩御し、
明治の御代が終わりを告げた。
 御一新、西南の役、清、露西亜との戦争、激動の時代という感慨
深さよりも、当時の日本は後に日露戦争と呼ばれることになる戦い
の後の経済の沈滞化から浮上をしようとする時期にさしかかりつつ
あった。

 大正と元号が改まってから、銀次郎は念願の船主となる夢を実現
した。勝田商会で「御代丸」という商船を買い入れたのだ。
 1500トンそこそこの当時としては中型の、古参船だったが、小野
浜の沖合いに錨を下ろすわが船を、銀次郎は目を細めて見つめていた。

 ある日、銀次郎は、兼松商店の隣にある三井物産神戸支店へ立ち
寄った。事務室に入ると、以前から顔見知りになっていた内田が出
てきて、「勝田さん、景気はどんなものでしょうか」と水を向けて
きた。
「内田さん、なかなか厳しいものじゃ。ウチも船を買い込んだは良い
が船価が底に張り付いておる。今はじっと我慢のし時だな」。
 苦笑しながらも返す銀次郎に、内田は声を潜めながら、「欧州での
列強間の緊張は高まってますよ」とささやいた。
 たしかに膨張を続ける独逸、そして墺太利=洪牙利帝国に対し、英
吉利、仏蘭西、露西亜は牽制を仕掛けるという構図であったらから、
きな臭さは以前よりも強くなっていた。問題は、それが何時、弾け散
るかだった。
 
 「ところで、勝田さん」、内田は話の方向をその視線の向うに変え
ようとしていた。その眼の先には兼松商店ビルの2階の一室が見えて
いた。「私は折に触れて、あの部屋のあるじの行動を見ているんです
よ」。                   (この項、つづく)


2007年11月10日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(20)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時25分29秒

 明治44(1911)年8月、兼松房次郎の新しい店が出来上がった。
まだ明治中期に完成した、植民地でよく見られるベランダを周囲に
めぐらした2階建瓦葺の建物が目立った海岸通にあって、ひときわ
高い兼松商店のビルは、隅や窓周りに御影石をふんだんに用い、通
りに面した壁はその頃はまだ目新しかったタイル貼で仕上げていた。
 竣工のお披露目の式で末席にいた銀次郎は、建物の窓周りを見て
いて、寺でよく見かける唐破風のような線が描かれているのを見た。
「それに」、銀次郎は思った。建物正面に、天冠みたいな三角形の
妻が掲げられているのだが、どうもこいつが重たげに見える。
 銀次郎は、ここで西洋式の建物を建てるのにアーキテクトなる職
能が必要であることも知った。房次郎と話をしている河合という髪
の短い男が、この建物の普請を差配した「アーキテクト」とかいう
者であるらしかった。どうも言葉遣いから、江戸の武家の出身、と
いう風であった。
 
 「このような建物を建てる機会に恵まれることがあるなら、どん
な建物がいいだろうか」。銀次郎は思った。「だが、そのときは、
河合という人には頼まずにいよう・・・」
 兼松は、新しい本店を「日濠館」と名づけた。1階は兼松商店が
丸ごと使うように、置くには堅牢な鉄扉の付いた倉庫も作られてい
るのを見て、さしもの銀次郎も驚いた。

 その2ヵ月後、母のムメが逝った。八十年の生涯であった。
 小さいながらも神戸で店を構えて、母を迎えることができたのが
銀次郎にとっては精一杯の親孝行、というところだった。
 
 母の四十九日を済ませて、松山の父の眠る墓に納骨も済ませた。
 銀次郎は自分に言い聞かせた。「もう前へ進むしかない。今は」。
                     (この項、つづく)

 日濠館(兼松商店)明治四十四年竣工


2007年11月3日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(19)

カテゴリー: - dr-franky @ 23時39分30秒

 日露戦争後の反動不景気は長く日本の経済に影を落としていた。
しかし、徐々に神戸の経済も立ち直りの兆しを見せ始めていた。
 銀次郎の店の周囲でも、たとえば栄町通3丁目には、横浜正金銀行神戸支店が、
伊太利亜復興式で明治27年に完成したのを皮切りに、19世紀最後の年、明治33
(1900)年、神戸郵便局のはす向かいに三菱が銀行の支店を石造で竣工させた。
 明治41(1908)年には、栄町通4丁目に、第一銀行の支店が英吉利仕込みの赤
煉瓦造で完成した。日本の資本が、漸く本格的な西洋建築を実現できるまでに実
力を蓄えてきたのだった。

 そうこうしているうちに、銀次郎の年長の同業者、兼松房次郎が、海岸通の店
を本格建築に建て替えることを決めて、神戸地方裁判所を手がけた江戸っ子建築
家・河合浩蔵に設計を依頼した。
 銀次郎も、仕事の往来に、兼松の新店の現場を通る時には様子を覗いてみた。
 居留地を別にすれば、栄町通や元町通界隈では、銀行の建物でも2階建半が多
かった。元町通1丁目にはシャツの大和屋や洋服の柴田音吉商店が3階建の店を
構えていたが、間口も奥行きも区々たるものであった。
 ところが、兼松の新店は大きな3階建の煉瓦建築だった。直ぐそばの店先で、
完成を心待ちにするかのように、足場を見つめる房次郎を目に留めた銀次郎が
近寄って話しかけた。

 「いや立派なもので御座いますな」。房次郎は「いやいやおかげさまで、なん
とかもう少し、というところです」と嬉しさを隠そうとはしなかった。
 「それにしても、これだけの大きさの建物をどうお使いになるおつもりで」。
 「ウチは1階は全部使いますが、2階以上はよそさんにお貸しするつもりです」。
 自社だけで使うのではなく、「貸家」経営も計算に入れて西洋建築を建てる房
次郎の算盤勘定を、銀次郎は内心、「流石」と称えていた。

 母ムメの病状は一進一退を続けていた。銀次郎は船主になった暁には、自分も
西洋建築の店を立てて、母を迎えることが出来れば、と思わずには居れなかった。
                               (この項つづく)


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