日露戦争後の反動不景気は長く日本の経済に影を落としていた。
  しかし、徐々に神戸の経済も立ち直りの兆しを見せ始めていた。
 銀次郎の店の周囲でも、たとえば栄町通3丁目には、横浜正金銀行神戸支店が、
伊太利亜復興式で明治27年に完成したのを皮切りに、19世紀最後の年、明治33
(1900)年、神戸郵便局のはす向かいに三菱が銀行の支店を石造で竣工させた。
 明治41(1908)年には、栄町通4丁目に、第一銀行の支店が英吉利仕込みの赤
煉瓦造で完成した。日本の資本が、漸く本格的な西洋建築を実現できるまでに実
力を蓄えてきたのだった。
 そうこうしているうちに、銀次郎の年長の同業者、兼松房次郎が、海岸通の店
を本格建築に建て替えることを決めて、神戸地方裁判所を手がけた江戸っ子建築
家・河合浩蔵に設計を依頼した。
 銀次郎も、仕事の往来に、兼松の新店の現場を通る時には様子を覗いてみた。
 居留地を別にすれば、栄町通や元町通界隈では、銀行の建物でも2階建半が多
かった。元町通1丁目にはシャツの大和屋や洋服の柴田音吉商店が3階建の店を
構えていたが、間口も奥行きも区々たるものであった。
 ところが、兼松の新店は大きな3階建の煉瓦建築だった。直ぐそばの店先で、
完成を心待ちにするかのように、足場を見つめる房次郎を目に留めた銀次郎が
近寄って話しかけた。
 「いや立派なもので御座いますな」。房次郎は「いやいやおかげさまで、なん
とかもう少し、というところです」と嬉しさを隠そうとはしなかった。
 「それにしても、これだけの大きさの建物をどうお使いになるおつもりで」。
 「ウチは1階は全部使いますが、2階以上はよそさんにお貸しするつもりです」。
 自社だけで使うのではなく、「貸家」経営も計算に入れて西洋建築を建てる房
次郎の算盤勘定を、銀次郎は内心、「流石」と称えていた。
 母ムメの病状は一進一退を続けていた。銀次郎は船主になった暁には、自分も
西洋建築の店を立てて、母を迎えることが出来れば、と思わずには居れなかった。
                               (この項つづく)


