ある日、銀次郎は神戸の貿易商経営者の会合に出席した。
仕事は多忙を極めていたとはいえ、まだまだ業界では新参者の銀次郎は
こまめにこうした集まりには時間を割いてでも顔を出していた。
会場の諏訪山の高台にある料亭の座敷に通された銀次郎は、出席者の
中に、いつもの顔ぶれ以外の、しかし見覚えのある男がいることに気付い
た。議事が終わり、酒宴に移ってしばらくして、銀次郎は其の男の所へ歩
み寄った。
「山下さん、しばらくです」。
男は一瞬怪訝な表情を見せたが、直ぐに「ああ、あの時の・・・銀次郎
さんだね」、と相好を崩した。
山下は、「そうか銀次郎さんが神戸で一旗挙げたとはねぇ」と感慨深げ
に銀次郎の顔を眺めた。
銀次郎は、「山下さんは、今は紙じゃなくて船を扱われるのですな」と
問いかけた。
「うん、わしもあれから色々あった。紙屋は直に止めて、竹内という商
社の石炭を扱う部署に勤めに行った。そこで傭船のイロハを身につけた。
其のうちに、そこの部署を「暖簾分け」ではないが譲ってもらって、独
立した。石炭という商品も船が要だと思ってナ。金策に走り回って、今は
どうにかこうにか船主さ」。
「ところで、銀次郎さんの方は」。
銀次郎は、柄にも無く、はにかみながらも「大陸からの雑貨や、豆粕など
を商って、なんとかやっております」と答え、そしてこう付け加えた。「し
かし、船は面白そうですな」。
「なあ、銀次郎さん」山下は声の調子を低くした。
「もうじき、我が国は露西亜と戦火を交えることになる」
「えっ」、銀次郎は驚きの表情を見せた。たしかに銀次郎のビジネスの
「主戦場」である満州地方をめぐる情勢からは、日露の緊張が高まっている
ことが窺がわれた。しかし、ここまで日露間の開戦について断言する山下の
根拠は何であるのか、銀次郎は測りかねていた。(この項、つづく)