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2007年9月30日(日曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(15)

カテゴリー: - dr-franky @ 11時01分27秒

 ある日、銀次郎は神戸の貿易商経営者の会合に出席した。
 仕事は多忙を極めていたとはいえ、まだまだ業界では新参者の銀次郎は
こまめにこうした集まりには時間を割いてでも顔を出していた。

 会場の諏訪山の高台にある料亭の座敷に通された銀次郎は、出席者の
中に、いつもの顔ぶれ以外の、しかし見覚えのある男がいることに気付い
た。議事が終わり、酒宴に移ってしばらくして、銀次郎は其の男の所へ歩
み寄った。
「山下さん、しばらくです」。
 男は一瞬怪訝な表情を見せたが、直ぐに「ああ、あの時の・・・銀次郎
さんだね」、と相好を崩した。

 山下は、「そうか銀次郎さんが神戸で一旗挙げたとはねぇ」と感慨深げ
に銀次郎の顔を眺めた。
 銀次郎は、「山下さんは、今は紙じゃなくて船を扱われるのですな」と
問いかけた。
 「うん、わしもあれから色々あった。紙屋は直に止めて、竹内という商
社の石炭を扱う部署に勤めに行った。そこで傭船のイロハを身につけた。
 其のうちに、そこの部署を「暖簾分け」ではないが譲ってもらって、独
立した。石炭という商品も船が要だと思ってナ。金策に走り回って、今は
どうにかこうにか船主さ」。
 「ところで、銀次郎さんの方は」。
 銀次郎は、柄にも無く、はにかみながらも「大陸からの雑貨や、豆粕など
を商って、なんとかやっております」と答え、そしてこう付け加えた。「し
かし、船は面白そうですな」。
  
 「なあ、銀次郎さん」山下は声の調子を低くした。
 「もうじき、我が国は露西亜と戦火を交えることになる」
 「えっ」、銀次郎は驚きの表情を見せた。たしかに銀次郎のビジネスの
「主戦場」である満州地方をめぐる情勢からは、日露の緊張が高まっている
ことが窺がわれた。しかし、ここまで日露間の開戦について断言する山下の
根拠は何であるのか、銀次郎は測りかねていた。(この項、つづく)
 


2007年9月25日(火曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(14)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時29分05秒

 読者の皆様、更新が遅くなって申し訳ないです。
 
 小さいとはいえ自分の「城」を持った銀次郎、後年の飛ぶ鳥を
落とす勢いという威勢のよさにはまだまだ及ばないが、幸い取引
先には恵まれた。
 神戸の有力者、三田出身の小寺泰次郎の係累が経営する小寺洋
行は早くから中国東北部(満州)で大豆を商ってきた。小寺洋行
は、大豆を材料とした植物油の精製茂手がけていたが、その過程
で出来る豆粕の配給権を勝田商会は得ることが出来た。
 また、傭船に関しては、西宮の辰馬汽船と契約を取り結んだ。
 貿易では、傭船のやり方にって経費の金嵩が大きく変わること
もあり、銀次郎も必要に迫られて、次第に傭船のノウハウを身に
つける努力を積んだのだろう。

 ある日、銀次郎は伝票の中をしていて、「山下」という傭船業
者の名前があるのに目を留めた。住所を見ると横浜の業者らしい。
 「山下・・・、もしやあの時の紙屋か」銀次郎は東京英和から
旅立った数年前の一度きりの出会いを思い起こしていた。
 
 勝田商会を開いてから3年が過ぎた明治36(1903)年、銀次郎は
京都伏見の山崎家から妻・静を迎えた。会社の経営も軌道に乗り
自信を深めたことの現れであったか。
 時代は、中国東北部の利権を巡る日本と露西亜との緊張が高まり
つつある時期に当たっていた。銀次郎は注意深く情勢を読み、先を
見ようと策をめぐらそうとしていた。戦争による国家の膨張は、近
代化の過程の歴史の中である種の共通するパターンといえるが、日
清戦争の次のピークが、静かに進みつつあった。(この項つづく)
 


2007年9月15日(土曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(13)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 光村利藻は、山手の県庁近くにある父弥兵衛が建てた広大な
屋敷に住んでいた。

 カメラと無心に向き合う利藻と、自分の落差に愕然としつつ
も、銀次郎は別のことを考えていた。
「物を動かす貿易商も商いとしては面白みがある。しかし、船
を動かすというのも悪くは無いな。船持ちなら一財産を築くの
も夢ではない。光村弥兵衛のように・・・」。

 銀次郎は、税関での通関の手続きに強い関心を寄せた。海外
からの商品の取り扱いのAtoZでいえば、通関業務が無ければ
商品は日本の土を踏むことは無いわけだから、貿易業に携わる
なら通関業務に精通しているのに、こしたことは無い。
 この時期、銀次郎は神戸税関で働いていた、という伝説もあ
り、その日常は詳らかではないのであるが、臨時雇いで神戸税
関にもぐりこんでいたことも考えられる。とにかく、自身の関心
の赴くまま、突進し、壁にぶつかって転進する、必死のパッチ、
トライアンドエラーの連続というのが、日清戦争後の、この時期
の銀次郎の実情であっただろう。
 
 明治33(1900)年、19世紀が終わりを迎えたこの年、銀次郎
は神戸栄町通の片隅で、初めての自分の店を構えた。
 仕舞屋の軒先に掲げた真新しい「勝田商會」の看板を、銀次郎
は感慨深く見上げた。小さくとも、自分の城をやっと持てた、と
いう感動が、銀次郎の心を高ぶらせていた。
 銀次郎は、本籍地も松山の生家から神戸に移す手続きを済ませ
ていた。
 この異郷の港町に骨をうずめる決意を固めた銀次郎は、このと
き27歳であった。       
                     (この項つづく) 


2007年9月6日(木曜日)

底抜け!豪快!!船成金の館(12)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 ある日、京町の東にある税関まで書類を届けに行った帰り、銀次郎は
海岸通をとぼとぼ店までの帰途を急いでいた。
 其の頃の税関は、今でいえば、「ハーフミラーの行灯ビル」関西電力
神戸支店ビルの西側、神戸地方合同庁舎の場所にあった。神戸開港から
間もない明治7年に建設された洋風の「異人館」で、前面のガラスのサ
ンルームから「ビードロの家」とも呼ばれることもあった。
 
 当然の事ながら、モータリゼーションの洪水があふれる遥か以前の海
岸通は、松並木が植わった土手もあって、格好の散歩道、憩いの場とな
っていた。
 その路傍で、神戸ではまだまだ珍しいゲダレオを三脚に据えて幕に首
を突っ込んでカメラを除き込んでいる男がいた。
 幕から顔を出す其の顔は、まだ幼さの残る顔立ちだ。
 「写真師というには若いなぁ」と銀次郎が思っていると、若い男は、
助手と思しき初老の男にあれこれ指図をしている。
 「失礼ですが、どちらの写真師の方で」銀次郎が、鳥打帽をとって挨
拶した。男は、「私は写真師じゃないよ」と笑った。「これは趣味でや
っているのさ」。
 銀次郎は目を丸くした。庶民にとっても写真など一生に一度撮影をし
てもらえるかどうかの高嶺の花。それにしても写真を撮られたら「魂を
奪われる」という迷信がまことしやかに言われていた時代に、写真撮影
を「趣味」にしているなんて、一体ぜんたいドンナ奴だ・・・。銀次郎
の困惑の表情を見て取ると、「私は光村利藻という。県庁の近くに住ん
でいる。」そうか、こいつがあの光村弥兵衛の一人息子か・・・。銀次
郎はある意味、納得してしまった。
 西南戦争でひと財産を築いて神戸に居を定めた光村弥兵衛は、銀次郎
が神戸にやってくる4年前に亡くなっていた。
 現在の貨幣価値に直せば数十億円規模ともいわれる莫大な遺産を受け
継いだ利藻は、元町通の写真師・市田左右太に弟子入りし、写真術を師
事。こうして神戸各地に撮影のため出没していた、というわけだ。
                       (この項、つづく)     
  


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