光村利藻は、山手の県庁近くにある父弥兵衛が建てた広大な
屋敷に住んでいた。
カメラと無心に向き合う利藻と、自分の落差に愕然としつつ
も、銀次郎は別のことを考えていた。
「物を動かす貿易商も商いとしては面白みがある。しかし、船
を動かすというのも悪くは無いな。船持ちなら一財産を築くの
も夢ではない。光村弥兵衛のように・・・」。
銀次郎は、税関での通関の手続きに強い関心を寄せた。海外
からの商品の取り扱いのAtoZでいえば、通関業務が無ければ
商品は日本の土を踏むことは無いわけだから、貿易業に携わる
なら通関業務に精通しているのに、こしたことは無い。
この時期、銀次郎は神戸税関で働いていた、という伝説もあ
り、その日常は詳らかではないのであるが、臨時雇いで神戸税
関にもぐりこんでいたことも考えられる。とにかく、自身の関心
の赴くまま、突進し、壁にぶつかって転進する、必死のパッチ、
トライアンドエラーの連続というのが、日清戦争後の、この時期
の銀次郎の実情であっただろう。
明治33(1900)年、19世紀が終わりを迎えたこの年、銀次郎
は神戸栄町通の片隅で、初めての自分の店を構えた。
仕舞屋の軒先に掲げた真新しい「勝田商會」の看板を、銀次郎
は感慨深く見上げた。小さくとも、自分の城をやっと持てた、と
いう感動が、銀次郎の心を高ぶらせていた。
銀次郎は、本籍地も松山の生家から神戸に移す手続きを済ませ
ていた。
この異郷の港町に骨をうずめる決意を固めた銀次郎は、このと
き27歳であった。
(この項つづく)


