2010年 12月
« 7月    
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
最近の投稿
2010年12月21日(火曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(75)
2010年12月19日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(74)
2010年7月19日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(73)
2010年6月28日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(72)
2010年3月28日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(71)
灘建築夜話 月別過去ログ
灘建築夜話 カテゴリ一覧
灘建築夜話 最近のコメント
最新の灘イベント情報
予定なし
オンライン状況
37 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが 灘建築夜話 を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 37

もっと...

2010年12月21日(火曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(75)

カテゴリー: - dr-franky @ 13時00分20秒

 昭和8年(1933)5月、銀次郎は2度目となる神戸市会議長に就任した。

 黒瀬弘志市長の任期は3ヶ月後に迫っていた。
 梅雨入りの頃には、にわかに黒瀬市長の後継者調整の動きが活発となり
始めていた。
 新政会は、早くから銀次郎を次期市長候補に、と見込んでいた。古株の
議員が断続的に、銀次郎と面談して市長候補の受容を要請した。だが、銀
次郎は笑いながら「わしは市長をやるほど耄碌はしとらんぞ」と、やり過
ごしていた。

 戦前期の市長の選考は、公選制では無かった。内務大臣の命令を受けて
市会で市長候補を3名選出、中央で裁可を得るという中央集権的色彩の強
い手続きだったものが、大正15年(1926)の制度改正で市会での選出で決
めるよう改められた。

 銀次郎が市長候補を受諾しなかった大きな理由は、事業の整理がまだ道
半ばだったことだ。
 市会議員は企業の役員など兼業が認められていたが、市長となるとすべ
ての役職を返上しなければならなかった。
 木本たちの奮闘があるとはいえ、現在の金額で数十億円単位の債務を抱
える銀次郎にとっては、「今は身動きが取れない」というのが本音だった。

 市会副議長の前田二一六、新政会古参の佃良一らが引き続き説得にあた
ったが銀次郎は首を縦には振らなかった。

 8月16日、任期満了に伴い黒瀬弘志は市長を辞職した。黒瀬前市長を支持
してきた公政会は候補者を擁立するには至らなかった。
 当面、市長職務は梅津芳三助役が代行することとなった。

 前田らは政友会の砂田重政代議士にも、側面支援を要請した。銀次郎と
同じ愛媛出身で、弁護士として海運業界とつながりが深かった砂田は快諾
すと勝田系企業の債権者である銀行との交渉に乗り出した。

 10月になって新政会は正式に銀次郎を次期市長候補に推薦することを決
定した。市会の市長選考委員会も無産政党所属の委員を除いて、というこ
とは事実上、圧倒的賛成多数で銀次郎を推薦する決議をしても、銀次郎は
態度を変えなかった。

摩耶を始め六甲の山並みがすっかり秋色に染まった頃だった。
 市会の情勢を見守ってきた、黒瀬前市長を支持する公政会は、候補者を
立てていなかったが、この期に及んで正式に黒瀬前市長の三選反対を表明
した。事実上の銀次郎支持のサインだった。

 銀次郎は決然と市長への立候補を表明した。

 歳の瀬が迫った十二月二十日、臨時の市会が招集された。議題は第八代
神戸市長の選挙である。

 冒頭、無産政党の2議員が議場から退席した。

 続いて信任の投票が始まった。
 結果、勝田銀次郎を信任五十六、白票一。事実上、満場一致で銀次郎
が市長に選出されたのだった。実に第四代鹿島房次郎いらい、20年ぶり
のことであった。

 この年、銀次郎が情熱を傾けた青谷御殿は、ひっそりと天理教に譲渡
されていた。債権者の金融機関と建物を活かしつづけるということで、
合意に達したのだった。主が不在であった館は、やや趣を変えて第二の
人生を歩もうとしていた。

 十二月二十一日午後。銀次郎は第一礼装で神戸市役所に登庁した。
                       (この項つづく)
市長時代の勝田銀次郎(昭和10年頃)


2010年12月19日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(74)

カテゴリー: - dr-franky @ 22時39分13秒

 昭和6年のある日、銀次郎は某所で中井一夫と向き合っていた。
 銀次郎は、翌7年(1932)2月の総選挙に出馬しない意向を固めていた。
 「中井さん、やはり代議士というのは政治に専念できる環境に居る者が
  ふさわしい。整理中の会社を3つも抱える私には、荷が重い」。
 銀次郎は中井に次回総選挙の立候補を促したのだ。
 前の選挙で、ある意味、自分の我儘を通す形で銀次郎を担ぎ出した中井
に、銀次郎の要請を断る理由はなかった。
 
 昭和7年(1932)2月の、総選挙で民政党候補で神戸市からは砂田重政と
ともに中井一夫が2回目の当選を果たした。

 その頃、神戸市議会は国政における民政・政友両党がしのぎを削る情勢
を反映して民政党系の公政会、政友会系の新政会が二大派閥であった。
 おりしも黒瀬弘志市政も2期目の終盤に差し掛かりつつあった。生糸検
査所の移転・拡張、そして農林省への移管を始め、神有電鉄の建設や阪神
電鉄の地下延伸で発生する残土を用いた新湊川や新生田川改修など経済対
策としての公共事業の展開・・・、財政的に厳しい中で神戸市政を舵取り
してきた内務官僚出身の黒瀬の手腕は堅実であった。
 だが、謂わば「市長与党」である公政会では、黒瀬の3期目については
「白紙」という空気であった。後継の市長は誰が適任か、水面下での模索
が始まりつつあった。
 
そうした中、銀次郎は勝田汽船を始めとする自身の関係する3つの会社
の整理を進めていた。
 総勢50人程の陣容だった勝田汽船も、今や木本幸吉ほか1名の2人が残っ
て銀行団と折衝を重ねていた。木本らの粘り強い交渉で大口債権者だった
在阪某有力銀行が20万円の債務を5千円まで棒引きしようと申し出てくれた。
「その代り」、担当者は木本に条件を出した。
「勝田社長に、いちど当社へ出向いてもらって頭を下げてもらいたい」。

 それから暫く後、高麗橋の石造りのビルの一室。薄暗い応接室の固い椅
子で銀次郎は、融資担当の重役と向かい合っていた。
 銀次郎は深々と頭を下げ、自身の経営の失敗から迷惑をかけたことへの
謝罪をした。重役は「勝田さん、こういっちゃあ何だが、わたしども恐慌
以降、経営に難渋している。なんとか一万円まで手当いただけませんかね」。

 西日の差す旧居留地のビルの一隅。勝田汽船の狭い事務室に銀次郎が戻
ってきた。
 「社長、いかがでしたか」。木本が机から立ち上がって出迎えた。
 「木本君」、銀次郎はぶっきらぼうに言った「一万円で話を付けてきた」。
 木本の顔から血の気が失せた。「社長、何いうてはりますねや。そんな
余裕はあらしません」。銀次郎は額に青筋を立てて、今まで辛抱してもら
った見返りだ、何とかしろ、と怒鳴る。その場を何とか押さえ銀次郎を送
り出した木本は、すぐさま三ノ宮駅へ走り大阪行きの汽車に飛び乗った。
再び銀行側に実情を訴えて、銀次郎の「空手形」を「回収」するために・・・。

 こうしたことを繰り返して、木本たちは銀次郎の3つの会社の債務を
へらしていったのだった。           (この項つづく)


28 queries. 0.034 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress