読者の皆様、更新が遅くなって申し訳ないです。
小さいとはいえ自分の「城」を持った銀次郎、後年の飛ぶ鳥を
落とす勢いという威勢のよさにはまだまだ及ばないが、幸い取引
先には恵まれた。
神戸の有力者、三田出身の小寺泰次郎の係累が経営する小寺洋
行は早くから中国東北部(満州)で大豆を商ってきた。小寺洋行
は、大豆を材料とした植物油の精製茂手がけていたが、その過程
で出来る豆粕の配給権を勝田商会は得ることが出来た。
また、傭船に関しては、西宮の辰馬汽船と契約を取り結んだ。
貿易では、傭船のやり方にって経費の金嵩が大きく変わること
もあり、銀次郎も必要に迫られて、次第に傭船のノウハウを身に
つける努力を積んだのだろう。
ある日、銀次郎は伝票の中をしていて、「山下」という傭船業
者の名前があるのに目を留めた。住所を見ると横浜の業者らしい。
「山下・・・、もしやあの時の紙屋か」銀次郎は東京英和から
旅立った数年前の一度きりの出会いを思い起こしていた。
勝田商会を開いてから3年が過ぎた明治36(1903)年、銀次郎は
京都伏見の山崎家から妻・静を迎えた。会社の経営も軌道に乗り
自信を深めたことの現れであったか。
時代は、中国東北部の利権を巡る日本と露西亜との緊張が高まり
つつある時期に当たっていた。銀次郎は注意深く情勢を読み、先を
見ようと策をめぐらそうとしていた。戦争による国家の膨張は、近
代化の過程の歴史の中である種の共通するパターンといえるが、日
清戦争の次のピークが、静かに進みつつあった。(この項つづく)


