明治44(1911)年8月、兼松房次郎の新しい店が出来上がった。
まだ明治中期に完成した、植民地でよく見られるベランダを周囲に
めぐらした2階建瓦葺の建物が目立った海岸通にあって、ひときわ
高い兼松商店のビルは、隅や窓周りに御影石をふんだんに用い、通
りに面した壁はその頃はまだ目新しかったタイル貼で仕上げていた。
竣工のお披露目の式で末席にいた銀次郎は、建物の窓周りを見て
いて、寺でよく見かける唐破風のような線が描かれているのを見た。
「それに」、銀次郎は思った。建物正面に、天冠みたいな三角形の
妻が掲げられているのだが、どうもこいつが重たげに見える。
銀次郎は、ここで西洋式の建物を建てるのにアーキテクトなる職
能が必要であることも知った。房次郎と話をしている河合という髪
の短い男が、この建物の普請を差配した「アーキテクト」とかいう
者であるらしかった。どうも言葉遣いから、江戸の武家の出身、と
いう風であった。
「このような建物を建てる機会に恵まれることがあるなら、どん
な建物がいいだろうか」。銀次郎は思った。「だが、そのときは、
河合という人には頼まずにいよう・・・」
兼松は、新しい本店を「日濠館」と名づけた。1階は兼松商店が
丸ごと使うように、置くには堅牢な鉄扉の付いた倉庫も作られてい
るのを見て、さしもの銀次郎も驚いた。
その2ヵ月後、母のムメが逝った。八十年の生涯であった。
小さいながらも神戸で店を構えて、母を迎えることができたのが
銀次郎にとっては精一杯の親孝行、というところだった。
母の四十九日を済ませて、松山の父の眠る墓に納骨も済ませた。
銀次郎は自分に言い聞かせた。「もう前へ進むしかない。今は」。
(この項、つづく)


