材木は・・・、詳しい話は伝わっていないが、恐らくは平太郎監督
の繋がりで、彼の郷里・吉野から運ばれた材が用いられたのであろう。
同じ武田先生の手になる煙草王・村井吉兵衛の東京・山王台の邸宅は、
台湾檜を用いたなどという伝承が残っているのに比べれば、地味なと
ころではある。
しかし、銀次郎の意を汲んで、杉、檜の良材が金に糸目をつけずに
集められたことは想像に難しくない。
敷地の整地はプランが決まった段階で先行して始まっていた。その
費用−十三万七千円−は、銀次郎の会社の東京支店ビルの建設費用が
ゆうに賄えるものであった。金田組は何時にも増して慎重に丁寧に工
事を進めた。
工事が本格化するにつれて、人々の噂に、銀次郎の新邸の話題がの
ぼる様になってきた。
「新造船の次は、千畳敷の御殿だそうな」「内田といい山下といい
豪勢な普請だったから、勝田も通り一遍のものを建てる訳にはいくま
いなぁ」。「それにしても、よっぽど戦争中の景気でしっかり貯め込
んでいたのだろうな」
その頃、神戸港の沖合いには、ぼちぼち出港のあてのない商船が艀
に係留されて船腹を晒す光景が広がりつつあった・・・。
大正8年8月21日。銀次郎は芳夫人や親戚の者たちとともに、青
谷の新邸建築の現場に在った。そう、今日は上棟式なのだ。
木の香りが満ちた新邸の一角で、銀次郎たちは恭しく頭を垂れた。
金田組の当主・辰之助や先代の兼吉、大工肝煎の常吉をはじめ、大
勢の職人達も立ち会った。
(この項つづく)