正金銀行の支援もあって、善治郎の会社は花筵の世界各地への
輸出を継続できた。
善治郎は、明治43(1910)年から、神戸花筵同業組合の組合長、
神戸輸出協会の副会長という要職を、多忙な本業の合間を縫って
務めていた。
長男の英太は、京都帝大を了えて、善治郎の右腕として、会社
を切り盛りするまでになっていた。
年号が昭和へ変わった年、故郷・長野から元代議士の令嬢・婦
美子を英太は妻に迎えた。
翌年には、初孫・善一郎が誕生した。
しかし自ら乗り出し販路を開く、という善治郎のビジネススタ
イルは六十歳を超えても変わることはなかった。気付いてみると、
善治郎の査証は、多くの亜米利加の入国管理局の許可印で埋め尽
くされているという按配だった。
母のすめは明治35(1902)年に七十五歳の生涯を全うし、兄の
善太郎も数年前、大正12(1923)年に七十歳で亡くなっていた。
「故郷へ一度は帰り墓参りをしなくてはならないな」。善治郎は
考えていた。
日本の経済は、決して順調ではなかった。いや好材料はないに
等しかった。大蔵大臣の失言に端を発した中小銀行の取り付け騒
ぎに端を発し、第一次世界大戦後の反動を逆に拡大路線で乗り切
ろうとしていた神戸の総合商社・鈴木商店も、唯一の取引銀行に
して事実上のメインバンク・台湾銀行からの融資の停止で、グル
ープ全体が解体の危機に瀕するなど、恐慌の影が徐々に忍び寄る、
そんな時代であった。 (この項続く)



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