後にあまれた伝記によると、銀次郎は、その男とであった時、なけなし
の金を懐に、北国へ向かう列車の車上にあった、という。
灘の誇るブルースシンガー。朱里エイコの歌の頃と違って、この頃の
北国行きの列車には、向こう見ずな若者達が一攫千金を狙って新天地
への片道切符を握り締めて、木製の直角座席に体を固くしていたのだっ
た。銀次郎よりひと回り年長の赤尾善治郎は、亜米利加大陸だったが、
銀次郎の頃は北海道も、そうした若者からは新天地として見られていた。
銀次郎も、どうも北海道で一旗を挙げてやろうという野心をたぎらせて
いたらしい。
どこの駅だったか、一人の初老の男が、銀次郎のはす向かいに座った。
銀次郎の訛りから余所者と見たのか、初老の男は銀次郎に話しかけて
きた。「そなた、まだまだお若いようだが、何処へ行こうとしている」。銀次
郎は、「北海道へ出ようと思っています」。と答えた。
銀次郎から、松山を出るまでのいきさつを一通り聞いた男は、「そうか、
たしかに北海道は、これから伸びてくる土地だろう。」と北海道が有望な
地であることに同意を示した。
「しかし」、と男は言葉を継いだ。「君はまだ若すぎる。新天地に赴いた
からといって、直ぐに良い働き口が見つかるわけではない」。
銀次郎が反論しようとするのを、男は遮るように続けた。「いいかね。事
業を興すのに必要なものは、情熱以外にもたくさんある。
君は中等学校を卒業したばかりだそうだが、これからの時代、事業を興
して成功していくには、たとえば外国との付き合いが必要になってくる。
言葉や相手の国の事情や法律にも通じていなくてはいけない。今の君に
そうした知識は身についているかね」。
銀次郎は黙り込むしかなかった。「事業の知識をつかむのに、実業の
世界に飛び込むというのは一見正しいようにも思えるが、それにしても、
君のたくらみは余りにも無鉄砲極まりない。今のまま北海道へ出ても、
君はたいした事のない仕事で、人に使われるだけで一生を終わってしまう
だろうよ。」というと、男は懐から書付けを取り出した。
男は「私は本多といって、東京で英学校の院長をしている。」と自己紹介
した。「勝田君、このまま北海道を目指すもよし。もし気持ちが動いたな
ら、私の学校を覗いてみてはどうか。これを持って訪ねてもらえれば、悪
いようにはしない。学校に話しを通しておくから」と、書付けを銀次郎に
手渡すと、本多は、次の停車駅で列車を降りた。
「けっ」。自分の夢に水をさすような説教をする本多に、血気はやる銀
次郎は、いい気持ちがしなかった。
だが、通り一遍ではない本多の話しぶりに、銀次郎は無視しきれない何
かを感じ取っていた。銀次郎は本多が手渡した書付けを、しっかりと荷物
を詰めた風呂敷の奥に大事にしまいこんだのだった。 (この項、続く)


