善治郎のたゆまない努力がようやく実りかけたころ、今一つの問題が起き
ていた。
明治も半ばを過ぎた頃から、日本産の花筵に対する一定の評価が出来ると、
一部の産地で優良品に粗悪品を混ぜて出荷したり、発注者のオーダーを無視
して出荷する不心得な動きが出てきたのだった。
これが結果的に日本製花筵の評判を落とすことになり、紐育港の上屋に
一時期数十万余りの日本製花筵の滞貨がひしめくこととなった。
善治郎は、備前、備中、備後の各産地を巡り、出荷組合の役員と膝を詰め
て交渉し、ある時は県庁の商工関係の役人達とも懇談を重ね、生産者の素質
向上に努めた。
善治郎が繰り返し説いたのは「貿易に必要な第一は信用、信頼である」と
いうことだった。初めて紐育に着いた荷を引き取ったときからの苦しい日々
を過ごしてきた善治郎の言葉の重みは次第に産地の出荷組合の役員や、県庁
の幹部に伝わるようになっていった。
また善治郎は、花筵の検査所を設置することも提唱した。農商務省へもた
びたび陳情に行った。いまや主要な貿易商品となった花筵の国際信用力の向
上のためには、不可欠の施設であることを説いてまわった善治郎の苦労がよ
うやく報われる時が来ようとしていたのだった。
(この項つづく)


