明治38(1905)年6月、待望の花筵検査所が神戸市磯上通で業務を開始
した。
ここに、花筵の輸出前のチェックは、各産地の花筵同業組合による自主的な
検査から、国による直轄検査へ移行した。
それまでばらばらで行われていた検査が、統一された基準で行われるように
なったことで、次第に日本製花筵の品質はバイヤーの間で再評価されるように
なり、最終的に倉庫で滞っていた花筵の在庫の山も次第に解消して行った。
さて、この時期、善治郎は神戸に居を構えた。中国地方の産地に近く、また
商品を積み出す港もある神戸の地は、善治郎にとって日本での拠点を置くのに
相応しい土地と写ったに違いない。
二宮の近く、今の布引町に構えた屋敷は、煉瓦壁を周囲にめぐらし木造2階
建下見板貼の、今で言えば異人館風の洋館と入母屋屋根の主屋、商品を納める
蔵が軒を連ねる大きなものであったことが今日伝わる写真から窺がわれる。
相変わらず亜米利加と神戸とを年に2往復はする善治郎の留守は、善治郎の
友人で、桑港の牧師・服部綾雄の妹である糸子夫人が守った。
もちろん順風満帆な日ばかりではなかった。花筵の売れ行きが伸びれば、一
方で絨毯の需要がへこむ。当然、亜米利加国内の絨毯織物業者が、政府に花筵
の大幅な関税引き上げを強硬に迫り、これを認めさせたのだ。
この知らせを聞いた日本の花筵業界人の多くは、花筵輸出の将来を憂い、減
産を決め、それが広がっていくという状況が各産地で広がろうとしていた。
だが、善治郎は泰然と構えていた。大幅な関税引き上げでも、花筵のコスト
パフォーマンスの優位はまだ保たれていたし、住宅ラッシュの西海岸を中心に
根強い花筵の需要は細ることはない、と善治郎は産地の代表者に説いて廻り、
事実、事態は善治郎の見通しどおりに展開し、ついには花筵の関税引き下げを
亜米利加の実需者が求めるという事態にまで至った。
景気の浮き沈みはあったが、日露、そして第一次世界大戦の勃発で、善治郎
のビジネスは全力疾走を始めた。この時期、三井物産を凌駕した神戸の総合商
社である鈴木商店の番頭・金子直吉は「めくら滅法に突進じゃ」と叫んだとか。
いや鈴木だけでなく、善治郎も含めた貿易商は突っ走った。(この項つづく)


