今で言うアルバイトを積み重ね、其の合間も縫って通った英学校で英会話もなんとか上達し、旅費五十ドルの工面もどうにかできた。
場末の古着屋でコートから上着、ズボン、シャツを買い込み旅装を調えた善治郎は、横浜へ向けて出発した。もちろん歩いて。
今ほど立派ではない横浜の港。しかし艀やランチやらで波止場は賑わっていた。
そんな中、見送ろうという者もない、一人ぼっちの善治郎は、しかし決然として「シティオブシドニー号」の船上の人となった。時に善治郎二十四歳、明治十九(一八八六)年年明け早々のことだった。
船が岸を離れて、浦賀水道から外洋へ出るころ、善治郎は船倉に近い「チャイニーズスティアレージ」三等船室のハンモックに潜り込んだ。船室といっても、貨客雑居の黴臭い物置然とした暗い穴倉である。しかし、快活な善治郎は他の船客や水夫達に話しかけ、覚えたてのジョークを飛ばして、次第に人気者になっていた。
越後で見た海よりもさらに果てしない来る日も来る日も続く大海原。ないないづくしの船客・善治郎は、時折甲板出でてはすきっ腹に空気を一杯に吸い込む毎日だった。
長い波路を辿った公開の末、「シティオブシドニー号」は桑港へ入港した。
長渕剛の出だしの一節ではないけれど「ピイピイの」套中一文無の善治郎は、とにもかくにも「新世界」亜米利加にその最初の一歩を記したのであった。(この項つづく)


