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2007年1月18日(木曜日)

第一夜 新家を「けんさん焼き」で締める

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分53秒

 実は、明治二十二(一八九九)年、一人の青年が、善治郎を頼って桑港へ渡って来た。

 青年は義弼といい、なんと善治郎の親友・梅次郎の紹介状を携えていた。
 善治郎は、義弼に、自身の経験に照らして、桑港には同胞でも素性のよくない者もあり、なおかつ雇用面の待遇もよくないから、いっそのこと紐育へ行くよう助言した。
 義弼は、善治郎の助言に従い、大陸横断鉄道で紐育へ向かい、いろいろ苦労をしながらも、同地の日本の貿易会社・森村ブラザーズの支店で、地下倉庫の商品整理係という仕事になんとかありつくことが出来ていた。
 その義弼が、しきりに手紙を善治郎に遣して、紐育へ出てくるよう勧めていたのだ。

 こんどは善治郎が義弼を頼ってニューヨークへ向かう番となった。

 流石にこんどは徒歩で北米大陸横断というわけには行かなかった。幸い、其の当時の善治郎の蓄えは、亜米利加の鉄道運賃でも、そんなに堪えないほどにはなっていた。
 紐育に着いた善治郎は、ほどなく義弼と同じ、森村組の商品整理係の職を得ることが出来た。

 ここで森村組について触れておこう。
 森村組とは、第六代森村市左衛門らにより、明治九(一八七六)年に設立した貿易商社である。
 市左衛門(幼名・市太郎)は天保十(一八三九)年に江戸の馬具・袋物商の家に生まれた。安政大地震の火災で、京橋の店が全焼。十六歳の市太郎は人夫や露天商などで日銭を稼ぎながら家計を支え、店の再建を目指した。そんな市太郎の転機は、安政六(一八五九)年の横浜開港だった。市太郎は横浜で仕入れたラシャ・時計など舶来の品々を江戸で薄利で販売。やがて江戸の諸侯の屋敷から声がかかるようになり、その中で中津藩の福澤諭吉の存在を知る。
 しかし、市太郎のビジネスは、幕府崩壊でかげりが見える。多角経営で手を伸ばした製塩、養蚕、漁業がことごとく失敗。しかし、新政府に本業の馬具を納入できたことでなんとか窮地は逃れることが出来た。だが、役人に賂を渡す習慣に憤慨。御用役人の座を投げ出す。そして、慶応義塾で福澤の教えを受けた弟・豊と共に設立したのが森村組である。
 二十二歳の豊は福澤諭吉が引き合わせた仲間と共に、紐育へ旅立ち、当地で「日之出商会」を設立。横浜での取引で審査眼を鍛えた市太郎が選りすぐった蒔絵などの工芸品などを扱った。その二年後、明治十一(一八七八)年、豊は独立する形で「森村ブラザーズ」を設立した。
 
 善治郎達が入店したのは、森村ブラザーズが陶磁器を主力に扱っていた時期で、躍進期に向けて加速をつけている時期、といえた。


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