第一次世界大戦の景気は空前だった。勝田や山下、内田といった船成金を
はじめ、にわか成金が我が世の春を謳歌した。
もちろん善治郎には、そこらの成金のような浮ついたところはなかったが、
やはり時流に乗って業績を伸ばしていった。善治郎の会社の主要な取引先で
ある亜米利加は当初は参戦せず、モンロー主義の下で中立の立場をとってい
たこともあって、取引には悪い影響はなかった。
花隈の花柳街では、暗い足元を照らすのに百円札を燃やしている、などと
いう風刺絵も出た。
川崎造船所の松方幸次郎など、「欧州の大戦は十年はつづく」と言って、
鼻息も荒く規格を統一した「ストックボート」の建造に血道をあげ、其の一
方で独逸のUボートの機密を狙ってヨーロッパへ渡り、カモフラージュもか
ねて名画を購入するようになっていた。
もちろん、その一方では狂乱物価に苦しめられる庶民の姿があった。
大正7(1918)年には、松方の盟友、金子直吉の率いる鈴木商店の東川崎
町の本店が、群集によって焼き打ちれる事件が起こった。内地の米を買い占
めている事実はないにもかかわらず、「鈴木はたいそう羽振りがええようや」
という評判だけで、買占めの元凶と槍玉に挙げられる。押し留めようのない
無数の衝動が引き起こした出来事だった。
しかし好事魔多しとはよく言ったものである。
その年の11月、独逸は連合国に降伏した。
こうなれば世の中一転して「売り一色」である。
輸出量は大幅に減少した。それは花筵も例外ではなかった。善治郎の会社
は百数十万ドルにも及ぶ滞貨を抱え、メーンバンクの横浜正金銀行も取引の
信用額を大幅に制限するほかなかった。
善治郎は、人生最大の危機に直面した。 (この項目つづく)


