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2007年12月2日(日曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(22)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 船舶部の事務所からは隣の日濠館の2階が見て取れた。
 「覗き見というのはあまり感心せぬが・・・。あ、あそこは
乾さんの事務所だね」。銀次郎は答えた。

 「乾さん」とは、「金貸し新兵衛」と呼ばれていた乾新兵衛の
ことである。ここで脱線して乾新兵衛について触れておきたい。
 もともとは、八部郡北野村(現北野町)の前田甚兵衛の長男・
鹿蔵として生を受け、幼少の頃より兵庫・湊町の酒造家・乾家へ
奉公に上がった。後年の新兵衛は今で言えば合理主義者の代表の
ような人物であるが、そうしたベースでの働きぶりが次第に当主
の認める所となり、ついには夫に先立たれた主人の娘の新たな夫
として乾家に迎えられた。
 その直後、義父が急逝。莫大な遺産が跡を継いだ鹿蔵改め乾新
兵衛の手中に納まった。これが世間の妬みを買った。寄付の強要、
ごろつきを使っての金品の要求が、新兵衛を揺さぶった。いや、
正確に言えば揺さ振ろうとしたが、新兵衛は「払う筋合いのもの
はビタ一文払わない」と毅然とした態度を取り続けた。新兵衛を
誹謗中傷する壮士芝居が興行されても、新兵衛はたじろがなかっ
た。いやますますその態度を頑なにした。
そうした新兵衛の徹底した合理主義が、当時の一般的な日本人
のメンタリティーにはなじまなかったのか、「ドケチ」というの
が新兵衛に対する世間一般の抱くイメージとなっていた。
 新兵衛は、本業の醸造業のほかに、蓄えを元手に金貸しもした。
しかし、それは今で言えば庶民相手のサラ金ではなく、事業家向
けのノンバンク、とでもいうもので、鈴木商店の金子直吉も新兵
衛から融資を受けていた、という。

 新兵衛は、銀次郎が神戸で独立したのと同じ時期に船舶業に進
出した。その新兵衛の船舶業の事務所の様子が、内田の職場から
はよく伺えるのだ。
 見ると、黒い詰襟を着た新兵衛が、黒い電気コードと電灯具を
持って隣の部屋へ移動するところだった。新兵衛は竿で電灯を隣
の部屋の金具に引っ掛けて、スイッチをひねっている。
 「ああやって、電気代と電灯具代を節約しているのですよ。ど
うせ使うのは1つだって言ってね」。内田は笑う。「でも、理屈
には適っていますよね」。
 「昼飯も、手先のブローカーの山本と連れ立って洋食を食べに
行きますが、いつも山本が代金を支払っているみたいですね。あ
それからあの部屋の家賃もそうらしいですが。まあ、山本にして
みれば、乾さんに儲けさせてもらっている恩義があるからなので
しょうけどね・・・」。
 内田は、こうした徹底した新兵衛の「ケチケチ」作戦を目の当
たりにしながら、自らと照らし合わせている様子だった。
「ああでもしないと財産は築けないないものなのか・・・」、銀
次郎は呆れてというか、感心してというか複雑な気持ちで、三井
物産を後にしたのだった。       (この項、つづく) 
乾新兵衛


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