銀次郎は、最初は持ち船よりもチャーター便の手配で利鞘を稼いでいた。
いや、どちらかといえば、儲けてやろう的発想よりも、むしろ取引先の
頼みを要望に応える内に、儲けが溜まっていくという風だったかもしれな
い。それだけ、船を動かすたびに、莫大な利益が転がり込んだのだった。
30年ほど前の神戸新聞の連載記事「海鳴り止まず」の記述を借りると、
「仮に、チャーターした船が不幸にも枢軸国側に撃沈されたとしても、乗
組員の葬式代、遺族への見舞金など支払っても、利益は充分に出た」のだ
そうである。乾新兵衛など、万が一の時の保険も掛けていない、という話
が伝わる(もっとも、この時代、英吉利の海運会社であっても船舶は無保
険だったという)。やらずぼったくりの保険屋に払う金はない、というい
かにも「金貸し新兵衛」らしい話ではある。一部の船主など、船齢ン十年
のボロ船をかき集めて、濡れ手に粟状態だった手合いもあった、という。
こんな状態だったから、国内の船不足は深刻で、機関を外されて運河で
物置に身をやつしていた船殻まで、再艤装を施され引っ張り出される始末。
そんな状況を、銀次郎は別の視線で見ていた。
「まだまだ我が国の海運業界は基盤が脆弱だ。優れた船は幾らあっても足り
ない位だ。」
勝田商会は、大正4年には海福丸、永代丸、興安丸の貨物船3隻を買い入
れると共に、別に3隻の貨物船の建造の発注に踏み切った。
神戸の商社・鈴木商店は、三井・三菱の大手に向うを張って、倫敦にも支
店を出していた。その頃には栄町通3丁目から、相生町の元ミカドホテルの
建物に移っていた鈴木商店には、毎朝、欧州を始めとして全世界からの暗号
電報が届けられ、番頭の金子直吉はそれらにすべて目を通し、頭脳をフル回
転させて次なる一手を打っていた。
その金子が、「勝田はん、ウチの高畑が遣してくる報告では、まだまだ戦
争は長引きそうでっせ」という。
欧州戦線は、当初の予想とは違って長期戦の様相を呈し始めていた。
(この項つづく)


