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2007年12月8日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(23)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 1914(大正3)年6月28日、墺太利=洪牙利帝国の皇太子フランツ・
フェルディナントが、行幸先のボスニアのサラエボで、セルビア人ガブリ
ロ・プリンチプによって、銃で狙撃され死亡した。後にサラエボ事件と呼
ばれる、この暗殺が直接的な原因となって、墺太利=洪牙利帝国はセルビ
アに宣戦を布告した。
 これに対し、墺太利によるボスニア併合を認める代わりにセルビアの独
立を認めていた露西亜帝国が兵員の総動員を発令。墺太利と同盟関係にあ
った独逸は8月2日、露西亜に、翌3日には仏蘭西に対して戦線を布告し、
後に第一次世界大戦と呼ばれることになる戦争状態に欧州はなだれ込んで
いった。 
 中立国であった白耳義に独逸軍が侵攻するに及んで、英吉利も8月4日
に独逸に宣戦を布告。日英同盟を結んでいた日本は、僚国英吉利や仏蘭西
などの連合国側の一員として8月23日、独逸に対して宣戦を布告した。
 9月には独逸が租借していた青島(チンタオ)に進軍し占領、また海軍
がやはり独逸が権益を持っていた南洋諸島を占領することになる。
 
 ここで時計を少し巻戻して、この年の6月終わり頃の日本を見てみよう。
 サラエボ事件当時の日本の経済界は、日露戦争後の反動不況のどん底で
あえいでいた。傭船業界も、船賃が底に張り付いた状態。どこも青息吐息
だった。

 三井物産神戸支店船舶部の内田信也は、東京に居た。内田の商才に目を
留めた同業他社が、彼を引き抜きにかかっていたのだ。先方の幹部との会
談の合間、ボーイが内田にフランツ・フェルディナント皇太子暗殺を知ら
せる号外を手渡した。
内田は一人つぶやいた。「もう雇われ人は、これっきりだ」。
 それまで収集していた情報の分析から、直ちに大規模な戦争状態になる
ことを洞察した内田は会談を途中で辞し、さらに三井物産本社に立ち寄っ
て、さっさと辞表を提出すると、神戸へ飛んで帰った。

 7月4日、亜米利加合衆国の独立記念日と同じ日、内田は神戸旧居留地
内の前町14番地(現在の神戸市立博物館西南隅のあたり)の二階建ての
二階を借り受け「内田信也事務所」の看板を掲げた。資本金は兄の四郎や
友人達からかき集めた二万円だった。

 二週目、墺太利=洪牙利帝国のボスニアへの宣戦布告を受けた日本の株
式市場は一時、株価が急落した。また船価はそれに輪をかけて暴落をした。

 すかさず、内田は手を打った。手始めに西宮の八馬汽船から第八多聞丸
をトン当たり月4千2百円の1年契約で借り受けた。直後から連合国軍へ
の物資輸送でチャーター船の需要が高まり、船価は急反発した。
 内田だけでなく、神戸のあらゆる船主が、「ここが勝負時」と読んでい
た。勝田銀次郎も、その一人だった。チャーターした船をまた貸しする。
さらに船を買い込み、人に貸す・・・。狂乱の大戦景気の幕開けだった。
                       (この項、つづく)


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