銀次郎と、武田先生との交渉は、その後も幾度と無く続いた。
「大艦隊が神戸に寄港しても」大丈夫な規模、というのが銀次郎の
注文だったので、武田先生もかなりのびのびとプランを描いたのだが、
色々と銀次郎なりに思うところがあって、平面計画は幾度と無く描き
なおされた。
大正8年も目前に迫った年の瀬。銀次郎はようやく新邸の計画を承
認した。
霊峰摩耶の麓に、雁行して広がる殿舎、東に主玄関と客殿を置き、
南向きの場所には、主人室と夫人のための部屋、事務方や台所は西側
に。さらには、当時としてはまだ珍しい鉄筋コンクリート造の蔵も作
る。先行して普請を進めていた山下亀三郎や内田信也の住まいも検分
した上での、銀次郎ならではの「城」、ともいうべき新邸が、具体的
な形を持って姿を現したのだ。
プランのつめが終わると、具体的な立面に移る。しかし名古屋の高専に赴任している武田先生と海運業界の寵児・銀次郎、多忙を極める二人がそうおいそれと打ち合わせの日程が取れるワケではない。
そこで武田先生は、信頼する愛弟子を銀次郎の下に差し向けることにした。 (この項つづく)


