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2008年5月17日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(43)

カテゴリー: - dr-franky @ 01時24分40秒

 国際汽船の設立に向けては、金子、山下らが中央政界に根回しし、
日本興業銀行などから社債引き受けの形をとった融資の約束を取り
付けた。

 船は銀次郎や、山下、内田といった船主以外に、強気で過大な大
戦需要を見込んだ結果、過剰なストックボートを抱え込んだ川崎造
船所の関連会社・川崎汽船が過半を拠出した。
 その川崎の松方幸次郎が、「新会社の役員はおい(私)の会社か
ら」と主張し始めた。
 大正8年、川崎汽船の初代社長・川崎芳太郎が病気のため辞任し
松方が造船所社長と兼務で川崎汽船社長のポストについた。
 海千山千の船主からすれば、新会社の発言権を得ておきたいとい
う思惑がある。そこへ20数名の役員の過半のポストを遣せと言う松
方の主張は受け入れがたい提案であった。
 特に、山下や内田たちにしてみれば、松方の国際汽船の社長就任、
という人事は回避したい事態であった。山下、内田ら3名の役員が
辞表を提出した。
 国際汽船の役員の暗闘が、次第に外部にも漏れ聴こえるようにな
ると、融資を担う金融団が二の足を踏み始めた。
 ここで、大合流が無に帰せば、今までの苦労が水の泡となる。松
方、反松方の2グループの間を取り持とうと金子直吉は斡旋に動く
が、山下、内田らは態度を硬化させた。

 まずは、金子が暫定で役員代表という立場で、社長代行の役回り
を担い、山下、内田らの説得を続けた。ついには、金子が首相官邸
へ国際汽船役員全員に召集をかけて、高橋是清大蔵大臣、野田卯太
郎逓信大臣らにも加わってもらって、ようやく松方の社長社長就任
を認めさせ、山下、内田ら3名に役員への復帰を約させ、大正9
(1920)年の株主総会で正式に国際汽船の体制が整ったのだった。
 それはまさしく、前途多難な船出であった。

 銀次郎も、心情的に山下や内田の立場を支持していた。しかし、
大局からすれば、山下も内田も大人の対応をするべきだ、という心
情を抱いていた。いや、銀次郎にしてみれば、この国際汽船の構想
の破綻は、自らの実業家としての生命が終わる、という思いであっ
たかもしれない。

 「どうかされましたか。」青谷の普請場で、ぼうっと物想いにふ
ける銀次郎に、平太郎が声を掛けた。
 平太郎自身、折に触れ海運業界の苦境を耳にしていた。だからと
言って、消して弱音を吐かない頼もしい施主である銀次郎が、とい
う気持ちからだった。
 「いや、何でもないよ。しかし、お陰さんでいい形で日に日に出
来上がって行くのが、何よりの楽しみじゃよ」。
 敢えて気丈な面持ちの銀次郎であった。   (この項つづく)

ファンエルマーク’K’


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