2008年 5月
« 4月   6月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
最近の投稿
2010年12月21日(火曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(75)
2010年12月19日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(74)
2010年7月19日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(73)
2010年6月28日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(72)
2010年3月28日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(71)
灘建築夜話 月別過去ログ
灘建築夜話 カテゴリ一覧
灘建築夜話 最近のコメント
最新の灘イベント情報
予定なし

2008年5月24日(土曜日)

底抜け!痛快!!船成金の館(44)

カテゴリー: - dr-franky @ 18時27分02秒

 無事、国際汽船が設立されると、松方幸次郎が渡英し、国際汽船、川崎汽船、そし
て鈴木商店倫敦支店との三社で共同配船のための取り決めを交わした。対外的には
川崎、国際、そして鈴木の称号「かね辰」の頭文字をとって「Kライン」を名乗った
この同盟は、大戦後の不況の中を、欧米の海運会社とわたりあった。
 しかし、そこに参加している会社からすれば、相変わらずの自転車操業、という
状態であった。

 そんな中、伊太利亜ゼノア市で、国際労働機関(ILO)の第二回総会が大正九
(1920)年6月に開催されることになった。この総会では、海上労働の問題が
協議されることになっており、日本へも政府と、船主、船員の代表者の出席要請が
ILOからなされた。

 その当時の我が国の船員の団体は、鈴木文治らが結成した労働者の相互扶助組織
である友愛会の海員部や、海員博済会、海員共同救済会、海員自治会、海員共済会
という5団体があった。友愛会海員部の指導者は、かつて明治四十五(1911)
年に本邦初の海上サボタージュを経験した浜田国太郎で、大戦期には好況を背景に
他の団体と船主に対して賃上げなど待遇改善の共同戦線を張った。そうした中で、
海員団体の合流が考えられたのも自然な流れであった。しかし、そこは結成に至っ
た経緯も異なる団体の寄り合い所帯の悲しさ、代表者選びの段階から話し合いは紛
糾し、労働者の大同団結はいつの間にか自然消滅してしまった。
  
 こんな状況だったから、ゼノアへの代表団メンバーの選定も最後まで紛糾した。

 一方の船主側も、やはり代表者を選考しなかればならなかったことに違いは無か
ったが、こちら側も日本郵船、大阪商船、東洋汽船といった大企業のいわゆる「社
船」系と、山下や内田、銀次郎ら個人経営的な船主の「社外船」系は、ことあるご
とに対立していた。
 しかし、不況下にあって足の引っ張り合いでは、欧米各国に遅れをとる、という
意識が、この頃には社船、社外船双方の船主達の共通認識となり始めていた。
 社外船主のグループである日本船主同盟会と社船グループとの会合で、日本郵船
社長の近藤廉平が、「社船、社外船の区別無く、全日本の船主団体がいまこそ必要
だ」と説いた。これが、過去のしがらみを断ち切るきっかけとなり、最終的に日本
船主協会が結成された。
  
 日本船主協会は、早速、海員側に先手を仕掛けた。賃下げ通告である。
 更には賃金の安い中国人船員を雇い入れ、日本人船員の解雇を打ち出した。
 (こうしてみると、90年近く経った今日、ある意味では同じ状況が繰り返され
ているのである)。港町には失業した船員があふれた。だが、それですら気休め程
度の「経営改善」でしかないのが、当時の状況であった。
 
 そうした中、青谷の銀次郎の新邸の工事は進められたのだった(この項つづく)。 


TrackBacks

このコメントのRSS

TrackBack URL : http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/wp-trackback.php/79

この投稿には、まだコメントが付いていません

コメント

投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。

30 queries. 0.030 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress