2007年 6月
« 5月   7月 »
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
最近の投稿
2010年12月21日(火曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(75)
2010年12月19日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(74)
2010年7月19日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(73)
2010年6月28日(月曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(72)
2010年3月28日(日曜日)
底抜け!痛快!!船成金の館(71)
灘建築夜話 月別過去ログ
灘建築夜話 カテゴリ一覧
灘建築夜話 最近のコメント
最新の灘イベント情報
予定なし

2007年6月7日(木曜日)

第一夜 夜明け前、阪急西灘を目指しアーケードを歩く

カテゴリー: - dr-franky @ 23時51分20秒

 私は、手元の「赤尾善治郎傳」の表紙の裏に、青インクで
書き込みがあるのに気付いた。

「昭和十七年十二月十三日 蒙恵贈
 今晩ヨリ警戒警報発令アリ 燈火管制下ニ繙(ひもと)ク」

 其の年の四月、太平洋上の空母ホーネットを飛び立ったドー
リットル中佐率いるボーイングB25爆撃機16機が、東京市、
川崎市、横須賀市、名古屋市、四日市市とともに神戸を爆撃し
た。
 このとき帝国陸海軍は、爆撃隊の策敵から帰還した海軍戦闘
機を陸軍戦闘機が敵機と誤認して撃墜するなど、大混乱に陥った。
 死者50人、焼失家屋2百戸余という被害が生じたのに対し、
帝国陸海軍は、B25爆撃機1機を、試作戦闘機(後「飛燕」
として制式化)が撃墜したのみだったが、真珠湾攻撃、マレー
侵攻と、連戦連勝に浮かれていた日本国内に対して、政府・軍
部は真実を伏せ、9機撃墜と偽りの戦果を喧伝した。
 だが、やがて「嘘が嘘を呼ぶ」かのように、日本軍はミッド
ウェー、ソロモンと各地で敗北を重ね、その実態とは、正反対
の虚報を大本営は垂れ流していくのであった。

 昭和十四(1937)年に疱瘡に罹って死線をさまよった末生還
し、日米開戦の昭和十六(1941)年の、西灘消防署増築に際し、
巨額の建築や資材購入費を寄贈した以外、善治郎の伝記の年表
に目だった事項は見当たらない。
 年表の「悠々自適」という4文字のほか、日米が開戦へと突
き進み、激突する中、善治郎はどのような心中で過ごしていた
のか。そのことを伝える資料は今のところ見出せていない。
 
 ただはっきりしているのは、善治郎が、昭和二十(1945)年
6月5日の空襲の時に、原田通の自宅で亡くなっていることだ
けだ。亜米利加を相手に商人道を歩んできた善治郎。その国の
焼夷弾の業火の中で一生を終えた其の彼の末期を思うと、私の
心中は複雑であった。

 私は、汽笛亭のドアを開けた。
 東の空は明るみ始めていた。したたかに酔いが廻った重い体
を引きずって、私はエルナードの石畳を西へ向かった。
 始発の三ノ宮行きに乗った。藤堂工務店の白いビルの向うに
銀色のドーム屋根が、朝の光に照らされて、僕をじっと見つめ
ていた。               (この項、おわり)

(おことわり)
本稿は服部純雄著「赤尾善治郎傳」(昭和十七年刊)、赤松啓
介「神戸財界開拓者伝」(昭和五十五年刊)等を下敷きに書き
下ろしたフィクションである。


TrackBacks

このコメントのRSS

TrackBack URL : http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/wp-trackback.php/34

この投稿には、まだコメントが付いていません

コメント

投稿された内容の著作権はコメントの投稿者に帰属します。

30 queries. 0.034 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress