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2007年6月21日(木曜日)

第二夜 底抜け!豪快!! 船成金の館あるいは勝田銀次郎傳(その1)

カテゴリー: - dr-franky @ 00時00分00秒

 神戸という町は、土着の人士だけでなく多くの他所者が造って来た
歴史がある。そうした中で幾つかのピークがあった。

 最初は西南の役で、神戸の町が反乱軍征伐の兵站拠点となった。
(平定後は、帰還兵がもたらした「厄介な土産」、最初のコレラ流行
という余計なオマケもついてきたが)。
 日清戦争では、神戸の貿易業界の一角を占めた華商勢力が一時的に
衰退することで出来た「エアポケット」に、日本人が食い込む余地が
作られ、日露戦争が契機となって日本人の商社活動も盛んになってき
た。その代表が兼松商店であり、あるいは鈴木商店であった。
 さらに勢いをつけたのが、サラエボでの一発の銃声で勃発した第一
次世界大戦であった。

 神戸は港を中心とした町の発展があったわけで、海運業とは切って
も切れない縁を持っていた。18世紀に兵庫津に本店を置き、オホーツ
ク海まで進出し淡路出身の高田屋嘉兵衛がまず思い浮かぶし、西南戦
争では廻船問屋「長門屋」の主・長州出身の光村弥兵衛が巨万の富を
築いた。弥兵衛は明治20年に61歳で没するが、時価3000万円の遺産を
相続した嗣子・利藻は、元町通の写真師・市田左右太に師事して写真
撮影に没入。従軍カメラマンとして日露戦争に赴き、乃木大将とステ
ッセル将軍の「水師営の会見」を撮影し、そらに写真印刷技術に興味
を抱き、現在の光村印刷株式会社に連なる印刷業を興した。
 
 そして第一次世界大戦では、成金の類が世の中を跋扈した。その中
でも神戸に拠点を置いた三人が飛びぬけて群を抜いていた。
 一人は茨城出身の内田信也である。東京高商を卒業後、三井物産に
入社し、神戸支店で傭船の仕事を担当している時に、支店の隣の兼松
商店ビル(現海岸ビルヂング)2階で事務所を開いていた乾新兵衛の
行動を注意深く観察しながら、実業家としてのセンスを磨いていた。
 もう一人は、愛媛出身の山下亀三郎であった。横浜の貿易商を転々
とするうちに海運業に携わるようになった。日露戦争で、持ち船が海
軍に徴用されて切っ掛けをつかむが、日露戦争後の反動と他部門の事
業失敗で窮地に追い込まれ、横浜を引き払って神戸で捲土重来を誓っ
ていた。
 そして、この話しの主人公・勝田銀次郎の登場である。

 第二夜は「評伝 勝田銀次郎」(松田重夫著、青山学院 昭和五十
四年刊)、「得山翁小偲録」(得山会編 昭和三十年)を元に、勝田
銀次郎の生涯と、彼が灘に残した一大建築が出来上がるまでのいきさ
つを綴る。  
  


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