1936(昭和11)年、日本が国際連盟を離脱して既に久しく、伊太利亜、
独逸との同盟 を進め、国内では次の敵は亜米利加、というのが世間の一致
した見方となっていた。
この年の十二月、善治郎待望の新邸が、西灘原田の地に姿を現していた。
和風住宅の家並みが続く中で、突如立ち上がる白亜の塔屋は、衆目を集め
た。面積四百六十坪の敷地の奥に、西班牙風の白亜の館と、其の西側に伝統
的な和館が接して建てられていた(建坪百六十八坪)。
建築の実務は、棟梁の儀久が取り仕切ったが、建物の通風、採光、プラン
や構造、水便などは善治郎の提案が生かされていた。
とりわけ四十五トンの鉄筋で支えられる塔屋を建ち上げるため、建物の基
礎の構築には並々ならぬ配慮がなされた。地盤面から相当掘り下げられた所
へ栗石を相当量投入し、三千俵のセメントできっちりと固められた。
其のつくりは「堅実」を旨とする善治郎の人柄そのまま現したかのようで
あった。
落成後、新邸に招かれた善治郎の知人が、「神戸に平和時代の要塞が出現
した」と感想を漏らしたという話が、素直にうなづける「城塞」の完成であ
った。
翌年の四月、善治郎は諏訪山の常盤花壇で宴を設けて、出席した百名余の
政財界の名士に向けて嗣子・英太へ会社の経営を全面的に委ね、自らは勇退
することを正式に明らかにした。
1937(昭和十二)年七月、盧溝橋から上がった火の手は、中国全土に燃え
広がる様相を見せ始めていた。十二月には南京が陥落した。
(この項目続く)

2007年6月4日(月曜日)
第一夜 町カクテル「西灘」をオーダーする(その2)
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