明治27(1894)年7月25日の豊島沖海戦を直接の契機に、8月1日に
日本国政府は清国政府に戦線を布告、後に日清戦争と呼ばれるようになる
戦争が始まった。
このとき、日本国政府の開戦の判断に賛同した中に、ほかならぬ本多
庸一がいた。
本多は、清国との戦争は義である、として軍隊への協力などを惜しま
なかった、と伝えられている。そうした本多の行動の背景として、先年
来のキリスト教=反国家という攻撃への、いわば対抗策をとろうとした
のだ、ということが言われている。
ともかくも、国家的な難局に遭っての学校長・本多の取った行動に、
学生達の間でも、なにかに関わらなければ、という若さゆえの義侠心に突
き動かされる者も少なくなかったという。
そうした中に、ほかならぬ銀次郎の姿もあった。
英和学校の食堂では、昼食時になると誰かが新聞を仕入れてきて食卓の
上に広げては、議論の輪が出来ていた。
新聞は、平壌の陸戦の様子を生々しく伝えていた。
「もし君なら、戦地にどんな立場で赴くかね」、と隣の組の儀助が質問
を皆に投げかけた。
「従軍記者・・・」銀次郎の口からそんな言葉が漏れた。「従軍記者に
なって前線の様子を伝えたい・・・」。
それからしばらくして、銀次郎は本多校長と向かい合っていた。
「せっかく、高等部の二年級にまで進んできるのに」、本多はため息を
ついた。「なぜ、今、従軍記者になりたい、と言い出すのかね」。
銀次郎は、この国難に、英和学校での勉学を活かしながら自分なりの関
わり方として、従軍記者として戦地に赴き、その様子を克明に報道するこ
とで、人々の国威高揚に役立ちたい、と熱弁を振るった。
英和学校での日々を通して、銀次郎の江戸っ子のように一本気なところ
を、本多もよく承知していた。一度は北海道を目指すといっていた無鉄砲
が、曲がりなりにも、ここまで自分の下で研鑽を積んできたことにも、人
並みならぬ賞賛の念を抱いていたのかもしれない。
銀次郎は言った。「英和学校での、先生から受けた教えは忘れませぬ」。
本多は、この青年を英和学校から送り出すことを決心した。
(この項つづく)